■年末年始

翌日は8時に起床するが、周囲を見てみると、まだ残っている人も多い。
今日は、ここのコンフルエンシアから標高4,400mのベースキャンプまでは所要8時間。
ダラダラと渓谷の中を歩かなければならない。
景色もたいした事ないので、恐ろしく退屈で苦痛そうだ。
バックパックが、レンタルしたしょぼいモノなので腰と肩が痛い。
「NIKKO」なんて、メーカーは聞いたことが無い。
「日光」のNIKKO??日本でも見たこと無いぞ。
アウトドア・グッズとして、チリやアルゼンチンでは、チリの製品である「ドイテ」が有名だ。
一応、エクスペディション・キャンプからファミリー・キャンプまで色々と扱っているが所詮3流品。
この辺りでは有名だが、世界的に見れば「何それ?」と言った感じだ。
実際、ドイテなんて、チリに入るまで聞いた事が無かった。
やはり、バックパックは「グレゴリー」に限る。
「バックパックのロールス・ロイス」と言われるだけあって、背負っていても全く疲れない。
グレゴリー以外だったら「オスプレー」、「デイナ・デザイン」だろう。
あとは「ローアルパイン」。
バックパックは、これらを買っておけば、まず間違いは無いだろう。
ようやく、ベースキャンプへ。
まずは、ユースホステルの扱っている旅行会社「CAMP BASE」へ行く。
ムーラに預けた荷物を取りに行くが、無事に到着している。
テントを張って、周囲を散策する。
ここも色とりどりのテントが張っていて、一面、花が咲いたようだ。
張られているテントの殆どがノース・フェイスだ。
ここもコンフルエンシア同様、各旅行会社が大きなテントを張っている。
どうやら、食事が出来るらしい。
なんと、ビールやコーラまで飲めるようだ。
どうやって運んでるのだろうか?
ムーラなのか??さすがにヘリコプターは使わないだろう。
まして、人が運ぶ「ボッカ」なんてのは、南米では皆無だろう。
日本の北アルプスなどの有名な山小屋では、ビールも飲めたりするようだ。
とある山小屋では、アイスクリームやオデンなども食べれるとか。
日本も負けていないぞ。
しかし!上には上がいる。
なんと!!すごいモノを発見した。
大きなテントには「INTERNATIONAL TELEPHONE」「INTERNET」「CHAT」の文字が見える。
「はいっ??」
はじめは理解できなかった。
まさに「ノー、エンティエンド(理解できない)」。
国際電話??インターネット??チャット??えっ??
ここでネットができるの?
チャットも?
まぁネットができるんだからチャットもできるだろう。
いやはやなんとも・・・言葉が出ない。
日本の山小屋は、ここまでしてないぞ・・・。
つーか、「ここまで来てネットやる馬鹿がいるのかよっ!」と思いつつ、すれ違い様にテントの中を見てみた。
えぇ〜、やっている人がいるよ〜。
そんなのメンドーサでも、できるでしょ??
ここでやらなければいけない事か??
まさか家族に「今、アコンカグアのベース・キャンプに居るよ」とか送ってるの?
それとも、彼女に「今、アコンカグア登頂してきたよ。マイハニー」とか送ってるの??
これには、もうかなり幻滅すると共に興覚め。
一気に「アコンカグアへ登りましょう気分」が下がっていった。
なんだここは・・・??殆ど街中と変わらない。
なんとか自分に言い聞かせる。
そして、日も暮れたのでテントの中へ。
テントの中で気づいたけど、今日は2005年の大晦日。すっかり忘れていた。
まぁ、山の中で迎える大晦日も良いかもしれない。
そのままテントの中へ入ったら、疲れていたのだろう。
2006年のカウントダウンは、すっかり夢の中だった。
がっ!!それも強制的に起こされてしまった。
ドカーーーーーン、ドカーーーーーン。
何々??何が起こったんだ?と思って外へ出てみる。
なんと、花火が上がってるではないか!!
これにも驚いた。
そして、その次の瞬間。
隣の隣の大型テントの中から大音量の音楽が流れてきた。
どうやら、ニューイヤー・パーティが開いているようだ。
さすがに、そのパーティに参加している登山者は少数のようで、殆どがここで働いている人。
「おいおい・・・だから、ここは、街中ぢゃねーつうのっ!!」
アルゼンチン人はバカか??
ここは登山する場所だぞ??
なんで、ここまで来て「ガソリーナ」を聴かなければいけないんだっ!!!!!!!!!
もう不快指数はMAXに到達。
とにかく我慢。
これがアルゼンチンの登山方法なんだと言い聞かせ、なんとか眠りに付く。
【2005年12月 旅日記】
■登山開始

10時30分にメンドーサを出発。
9時にユースホステルに到着したのに、出発はこの時間。
まぁラテンタイムだからしょうがない。
ユースホステルに到着したら、オレンジ色の服を着た人が10人ぐらい居る。
オーナーに聞くと、スペイン人がパーティを組んで、アコンカグアに挑戦するという。
彼らの周りにある荷物を見て、ビックリ。
プラスチックの大樽ケースが10個ほどあり、その大きさが高さ1m、直径50cmぐらい巨大ケースだ。
それ以外に各個人のバックパックがあって、何故そんなに荷物があるんだ??と思うほど。
そんだけ荷物持って行けば、落とせないほうがおかしいだろ?って感じだ。
しかも、ユニフォームでお揃い。
はたからみてるとダサさ1000%だ。
そんな極地法で登る山ではないでしょ??
この連中がのらりくらり支度していたので、この時間になってしまった。
本当にトロイ連中ばかりだよ・・・とイライラが募るが我慢、我慢。
なんとも忍耐強くなったものだ。
メンドーサから車を走らせる事、数時間で登山口に到着。
道中の景色は、自転車で一度走っているので、ずーっと寝ていた。
スペイン人チームは、高度順応の為に標高2,600mにあるペニテンテという場所で降りていった。
登山口には、レンジャーのオフィスがあり、そこで入山手続きを行う。
そして、番号の付いたゴミ袋を貰う。
この袋を下山する時に、ここまで持ってこないと罰金100ドル払わなければならない。
いよいよ歩き始める。
登山口の標高は2,900mで、出発時間は14時。
今の時期は、夜9時ぐらいまで明るいので、特に問題無い。
歩き始めて数分で、目の前にアコンカグアの南壁が飛び込んできた。
ここからの眺めが、一番いいかもしれない。
道は迷う事はなく、オルノコス川に沿って歩いていくだけ。
2時間半で標高3,300mのコンフルエンシアのキャンプ場に到着。
キャンプ場はさながらテント村になっていて、色とりどりのテントが張られている。
まぁハイシーズンだからしょうがない。
キャンプ場へのチェックインをした後、テントを張る。
水は川から引いているようで、特に問題は無いだろう。
トイレもあり、どうやら垂れ流しではなく、処理しているようだ。
各旅行会社の大きなテントがあり、ここでは食事もできるようだ。
しかも、ベッドが寝る事もできるようだ。
要は、日本の山小屋と一緒で、ぶっちゃけ何の装備も持たないでも大丈夫みたい。
さて明日はベースキャンプまでの長い道のりだ。
【2005年12月 旅日記】
■アコンカグアの準備

ジビ一家と別れを告げて、一路バスでアルゼンチンへ入国し、アコンカグアの拠点となる街メンドーサに到着。
以前、自転車で旅をしていた時は、かなり不快指数が高かったアルゼンチン。
また戻ってきてしまった・・・何か嫌な予感がする・・・それが何かわからない。
とにかく「アコンカグアへ行く」、そう自分に言い聞かせて、準備に取り掛かる。
まずは食料の準備をする。
メンドーサでは日本食は売っていないので、ラーメン、醤油、味噌、コチジャン、キムチなどはサンチャゴで購入してきた。
チョコや飴などの行動食、米や野菜などの主食は、ここメンドーサで購入。
念のため、約2週間分を用意したので、かなりの量だ。
次ぎに入山許可証を取得する。
12月15日から1月15日までは、ハイシーズンなので入山料は330ドルと、かなりの高額だ。
そして、入山期間は20日間まで。
アコンカグアの登頂は、最短で1週間、高度順応などにより長くて2週間ぐらいなので、これは大丈夫だろう。
そして、装備のレンタルは、ユースホステル系列の旅行会社で借りる事にした。
しかし、これがまた、とにかく若造ばかりで要領が悪い。
待ち合わせの時間にも平気で遅れるわ、アルゼンチン名物シエスタだわ、で全てにおいて時間がかかる。
とにかく、イライラしっぱなし。
なんとか、自分に言い聞かせて我慢する。
こんなんで本当に登る事が出来るのか!?
プラスチックブーツ、大型バックパック、アイゼンを借りる。
ピッケルは必要は無く、ストックはサンチャゴで出会った人が貸してくれた。
彼は2月頃にアコンカグアを目指すという。
ここの旅行会社はレンタル費用は、他と比べては安いほうだった。
登山口からベース・キャンプまでは、ムーラ(馬とロバの合いの子)が荷物を運んでくれる。
1頭60kgまで荷物を積む事が出来て100ドルで、複数人いれば、料金は折半できる。
これも旅行会社で手配してもらう事ができる。
全て終わって後は登るのみ。
なんとかここまでこぎ付けた。
果たしてこの結果は・・・・。
嫌な予感は的中するのか否か。
【2005年12月 旅日記】
■再会

クリスマス前にサンチャゴに到着。
サンチャゴで働いている友人宅に連絡し、新市街にある家にお邪魔させてもらう。
その御家族は、旦那はジビ、奥さんはカズエさん。そして7歳になるレイくんの3人家族。
この家族との出会いは今から溯る事、7年前の夏。
当時、海外へのツーリングを目指すべく、仕事の合間をぬって色々と旅に出ていた。
当然、社会人は休みが短いので、それに合う旅をしていた。
海外では、酷暑の国から酷寒の国まである。
まずは手始めとして、暑いのを経験するために、自転車による紀伊半島一周を計画。
1998年の夏、時期は残暑が厳しい8月下旬だった。
水を5L携帯して、自炊しながら走る。
日中の気温は38度になり、まさに地獄のような暑さだった。
夜も気温は下がることなく、テントの中は蒸し風呂状態となり、寝る事も出来ず、不眠不休の日が続いた。
そんなある日の事、いつもの様にアップダウンを繰り返して走っていた。
そろそろ休憩にするかと思いつつ、ふと見てみると前方に駐車場が見えた。
その駐車場に行ってみると、彼ら一家が車で旅行しているようで休んでいた。
その時が初めての出会いだった。
旅の出会いとして「どこから着た?」「どこへ行く?」から始まって色々と話す。
旦那は頭が照り輝いているポーランド出身のマッチョマン。
名前は恐ろしく長く、未だ覚えられず、通称はジビと言う。
奥さんはスラリと痩せた美人。
おいおい、二人は何処で出会ったんだ!?と突っ込むのには、まだ早すぎるだろう。
そして、レイくんは、まだ生れたばかりだった。
カズエさんは昔、アルゼンチンに住んでいた事もあってスペイン語が話せる。
当然、南米も旅した経験もあって、かなり詳しい。
ジビに至っては、仕事は英語教師で、勿論、日本語もペラペラで、夫婦揃ってバイリンガルなのだ。
その出会いの時間は、数分と短かったが、別れる時に住所とメールアドレスを頂いた。
そして、旅が終わって、仕事に復帰。
この家族とメールや年賀状などのやりとりが続いた。
その後、自分は仕事を辞め、旅への資金稼ぎのため転職、そして出発。
自分が日本に居る時と同じように、各国各地からメールのやりとりが続いた。
そして、自分の旅は南米へ。
自分がボリビアに居る時、カズエさんから連絡が入り、仕事でチリのサンチャゴに住む事になったという。
自分は南下しているので、サンチャゴへも行くので、じゃあ、サンチャゴで会いましょうという事になった。
なんという偶然、神が仕組んだとしか考えられない。
そして、2005年の12月、家族3人とご対面。
実に7年振りの再会なので、ぶっちゃけ正直言うと、顔は既におぼろげ。
もし、街中で待ち合わせしていたら、お互いわからなかっただろう・・・。
初めて出会った時は、まだ生まれたばかりだったレイくんは、既に立派な小学2年生。
こちらの日本人学校へ通っていて、きちんと敬語も使える。
自分がこの歳の時、敬語なんて使ったか??と思わず考えてしまい、親のシツケがなっているんですな。
ジビはちょうどクリスマスという事で、こっちにやって来ていた。
パパは日本で一人寂しく単身赴任なのだ。
当時出会った事、自分の旅の事、家族の事、話は尽きる事無い。
まさか、日本を旅している時に出会った人と、再び海外で出会えるとは。
ボリビア南部で出会ったヨウコさんと同じだ。
何度でも言おう、「旅の醍醐味は出会い」である。
もし、自分が数分でもあの休憩場に到着するのが遅かったら・・・。
もし、ジビ達が数分早く出発してしまったら・・・。
ここサンチャゴでも出会う事は無かっただろう。
数秒先、数分先で、自分の人生とは変わるものだ。
あの時、彼らに出会っていなければ、自分は今ここにいなかったかもしれない。
一寸先は闇かもしれないが光りの時もある。
あの時、そしてこの時、ジビ、カズエさん、レイくんの出会いに感謝。
サンチャゴでの良い思い出になりました。
また世界の何処かで出会える事を楽しみしてます!!
ありがとうございます!!
【2005年12月 旅日記】
■決断

ここ汐見荘は本当に居心地がいい。
ここで再びガリュウくんと再会。
彼と毎日市場に行って魚介類を食べているが、とにかく美味い。
勿論、愛車も洗車する。
クスコ以来の洗車なので、至る所が汚れている。
その容姿は、アンデスの風に吹かれ、泥にまみれ、キャリアも折れ、旅の過酷さを物語っている。
洗車する場合は、ケロシン(灯油)で洗う。
水を掛けずに、布で1つ1つのパーツを一生懸命拭く。
いつも半日ぐらいかけて奇麗にするので、終わった後は、新車みたいにピカピカだ。
さて今後の予定は「アコンカグアの登山」。
一応、挑戦する事に決定。
詰まらない山かもしれないけれど、やはり目の前に聳えているのを見てしまったら・・・行くしかない。
バスで首都サンチャゴへ行くので、自転車とは、一時のサヨナラだ。
サンチャゴには、以前日本を旅していた時に出会った友達が働いている。
その人に出会うため、そして登山用具や食材を購入するために。
今日の夕飯もサーモンの刺身と蛤のすまし汁。
以前、居酒屋で働いていたので、魚を捌くのはお手の物。
いやー、居酒屋で働いてよかった。
その時の技術が今役に立っている。
【2005年12月 旅日記】
■刺身

汐見荘の名物として、「刺身」を食べる事が出来る。
チリも日本のように海産物を食べる習慣があるが、刺身では食べず、煮たり焼いたりして食べる。
刺身で食べるのは、世界でもどうやら日本人だけのようだ。
ビーニャ・デル・マルの郊外の魚市場に行けば、採れたばかりの新鮮な魚介類が並んでいる。
見た事が無いような魚ばかりだけど、お馴染みの魚もある。
アジやサバも時々採れるようだ。
中でもメインはサーモン。
かなり脂が乗っていてこってりとして美味く、1kgで2200ペソ(約450円)と言う驚きの価格である。
チリでは、サーモンは食べる習慣は無かったようだけれど、日本のJICAによって食べる事が教えられ、今では養殖されている。
貝は、ムール貝やホタテ、ハマグリなどが並んでいる。
ホタテはちょっと高く、1つ200ペソ(約40円)。
日本と比較すると死ぬほど安いけど、チリでは高価な部類に入る。
ムール貝やハマグリなどは、1kgで1000〜1500ペソ(約200〜300円)。
味噌汁やすまし汁、白ワインなどで蒸しても美味い。
貝好きにはたまらないだろう。
体長15cmぐらいのカニも水揚げされる。
これは茹でて、カブリ付くのがベスト。
小さいけれど、意外にカニ味噌が詰まっている。
イカも水揚げされるけれど、「大王イカ」という巨大なイカなのであまり美味くない。
ヒラメも網に引っかかるけれど、これは売り物にならないらしく、カモメやペリカンの餌になってしまう。
だから、ヒラメはタダで手に入れる事が出来る。
ごくたまにアナゴも水揚げされるが、昔はヒラメ同様、ゴミ同然で捨てられていたらしい。
最近は売るようになったらしいが、体長1m近くの巨大アナゴが約300ペソ(約60円)と激安。
捌くのが難しいので、漁師に捌いてもらう。
日本人であれば、これを読んでいるだけで、口の中に唾が溜まってしまうだろう。
まして、海外では刺身を食べる事は、ほぼ不可能(日本食レストランに行くのは別として)。
旅も3年半近くになるけれど、ここまで安く、そして大量に刺身を食べれるのは恐らくチリだけだろう。
肉よりも刺身のほうが好きなので、毎日市場に通って、刺身を食べまくる。
チリでは、キッコーマン醤油も買えるし、ワサビは日本食食材店でも買える。
ここからチリ南部でも海産物が食べれるので、醤油とワサビは必携。
中南米には日本人宿が多いけど、数ある日本人宿に中でも出刃包丁と刺身包丁があるのは、ここ「汐見荘」だけであろう。
飯が美味い国というのは、旅をしていて楽しい。
刺身文化、最高ですな。
【2005年12月 旅日記】
■日本人宿

ビーニャ・デル・マルに到着。
ここはチリの中でも有数のリゾート地。
何故リゾート地に来たかたと言うと、ここに日本人宿「汐見荘」がある。
ここの主人は日本人で、主人もまた昔自転車で世界を回った旅人である。
中南米には多くの日本人宿が存在する。
メキシコ・シティの「ペンション・アミーゴ」、サン・パウロの「ペンション荒木」と並び、「中南米の三大老舗日本人宿」と呼ばれている。
これらの宿は1980年代から続いており、かなりの歴史がある。
日本人宿には、小説や漫画、情報ノートがあって非常に便利である。
やはり、長期にわたって旅を続けていると日本語が恋しくなる。
また、NHKが映る宿もあるので、日本の状況をある程度、理解する事もできる。
中でも、情報ノートはかなり役に立つ。
各地の安宿や美味しいレストランに始まり、様々な情報が書かれている。
当然、自転車に関する情報もある。
昔は、インターネットは無かったため、旅行者同士の情報交換は不可能。
だから、当時はこの情報ノートをかなり頼りにしていたようだ。
情報ノートは色褪せていて、月日の流れを感じる事ができる。
日本人宿の「三種の神器」と呼ばれるモノは「漫画」「情報ノート」「台所」と言われている。
漫画を読み、日本語に対する餓えを癒し、情報ノートで各国の情報を得る。
そして、台所で皆で「シェア飯」をして日本食を作ると言うのが、これが日本人宿の定番だ。
おもしろいのが、中南米にある日本人宿の主人は、日本人で元旅行者、そして奥さんが現地人というパターンが多い。
中南米を旅行して、現地の女性と知り合い、良い関係になって、こちらに住んでしまう、と言う事が多いようだ。
やはり「女性の南米」という言葉があるだけあって、日本人男性にとっては中南米の女性は魅力があるらしい。
いずれにせよ、このような日本人宿のお陰で旅が出来るのであるから感謝である。
【2005年12月 旅日記】
■祝!!

その日は珍しく平均速度23km/hで走る事が出来た。
ロス・アンデスからビーニャ・デル・マルへの道は、ほぼ緩い下りだからだった。
昨日の値段間違えの鬱憤を晴らすかのようにかっとんだ。
ビーニャには15時頃に到着。
ちょうど、インフォメーションセンターの前で、走行距離50,000kmを突破した。
いやー、やっと50,000kmかぁ。
今までの旅が頭の中で回想する。
10,000kmは、オーストラリアの北西部ブルームの郊外で迎えた。
20,000kmは、オーストラリアの南東部オーボストの郊外で。
30,000kmは、アメリカ合衆国のモンタナ州、40,000kmは、コスタリカのリベラルタの近くで。
長いようで短かった。
赤道が40,000kmと言われているので、ようやく地球一週分と1/4を走った計算だ。
さて、あとどのくらい走ったら日本に到着するんだろう・・・。
まだまだ旅は終わらない。
【2005年12月 旅日記】
■突破!

無事に峠を越え、ロス・アンデスに到着。
3日振りの宿に入る。
値段を聞くと、8,000ペソ(約1,600円)。
本来だったら、16ドルの部屋なんてすぐにお断り。
しかし、その時はどうしたのか、料金を払って部屋へ。
部屋に入って、ドルだといくらなんだ?と思い、電卓で計算。
はじき出された数字は驚きの「16」!!
何!!
16ドルもするのか!!
えーーーーっ!!!計算を間違えしてしまった。
値段を聞いた時、8,000ペソと言われ、何でか知らないが、8ドルと計算してしまった。
まぁ、3日振りだし、8ドルだったらいいか、と思ってチェックイン・・・。
やってしまった・・・どうも暗算が苦手だ
もういいや。
アンデス越えのご褒美と言い聞かせて眠りに付いた。
明日は日本人宿のあるビーニャ・デル・マルという街を目指す。
【2005年12月 旅日記】
■峠制覇

南壁に別れを告げて峠を目指す。
標高2,800m辺りから、傾斜がきつくなり標高を稼ぐ。
どういう道の造りだっ!と毒付きながらもペダルをこぐ。
自分は上り坂では、絶対に押さない。
降りて押したら最後、自転車で旅してる意味が無くなる。
荷物を運搬しているトレーラーも喘ぎながら登ってる。
そして、3,200mのリベルタドーレス峠に到着!!と言っても実際の峠はまだ先。
「その先」と言うのはトンネルの中。
ここにはトンネルがあって、その中に国境がある。
しかもトンネル内は自転車の走行は禁止で、トラックに運ばれて、チリ側に行く事になる。
なんともつまらない峠だ。
だからアグアネグラ峠を越えたかったんだ・・・。
管理事務所の人が電話してくれて、トラックがくるのを待つ。
お金を払うという噂があるが、自分は払わなかった。
そして、トラックでチリ側へ。
トンネルの距離は約4kmぐらいだ。
チリ側の周囲の山々は雪が纏っていたけど、たいしたこと無い。
いい景色を見慣れてしまっているようだ。
少し走って、チリのイミグレへ。
そして、このルートでの有名な場所「スーパー九十九折れ」。
誰がそう言ったかどうかは定かではないけれど、すごい九十九折れ。
よくもまぁ、こんな所に道を造ったものだという感じ。
またしてもトラックが喘ぎながら登っている。
なんだか不完全燃焼の峠越えだった。
【2005年12月 旅日記】
■挑戦?

プンタ・デ・バカを6時に出発。
すぐに、標高2,700mのプエンテ・デル・インカに到着した。
ここは、アコンカグアのノーマル・ルートの拠点となる集落だ。
観光地だけあって、高そうなレストランや宿が立ち並んでいる。
ここから少し走ると、アルゼンチンのイミグレがある。
そして、再びエッチラオッチラと走っていると、右手の景色が開いた。
ふと見てみると、山間部からアメリカ大陸最高峰アコンカグア(標高6,962m)が顔を覗かせていた。
ここから見えるアコンカグア南壁は、まさに屏風のように聳えている。
アコンカグアのノーマル・ルートは、特に難しい場所は無く、寒さと風と高山病を克服すれば、登れる山だ。
運がよければ、登山経験が無い人でも登頂できる。
しかし、あくまでも標高7,000m近いので、なめてはいけない。
いくら、今の時期が夏だと言っても、山頂付近は氷点下20度にもなる。
過去にプラスチック・ブーツも持たないで入山して、凍傷になりかけて、下山した愚かな日本人旅行者もいるほどだ。
今、自分は悩んでいる。
この山に挑戦するか否か。
装備はプラスチック・ブーツとアイゼンを借りるぐらいで、それ以外は全て持っているので、用意は万端だ。
登りたい気持ちはあるけれど、どうも気が乗らない。
確かに「アメリカ大陸最高峰」という「冠」には憧れる。
しかし、「山経験が無い人でも登れる山」と考えると、全く魅力が無い。
基本的に自分は天邪鬼。
多くの人がやっている事は、やりたくない人間だ。
それに値段がべらぼうに高く、ハイ・シーズンで入山料は、なんと330ドル!!
どうしよう・・・と、南壁を見ながら考えていた。
まぁ取り合えず、目の前の峠リベルタドーレスをやっつけよう。
ここから峠までは残り20kmなので、陥落は目前だ。
【2005年12月 旅日記】
■組み合わせ

今日は標高2,500mの「プンタ・デ・バカ」という集落で泊まる事に。
ちょうどレフヒオ(非難小屋)があって、その前が今日の寝場所。
一応、ヘンダメリアの了解ももらっているので、昨日のようなガソリン泥棒は来ないだろう。
全く、昨日の夜は驚きだったけど、まぁ貴重な体験だったかな。
日が暮れて夕飯の準備に取り掛かる。
今日も「ツナ入り野菜炒め」。
しかし、今回はツナを止めて、サーディン(イワシ)の缶詰にした。
ニンジン、ジャガイモ、玉ねぎを炒め、イワシの缶詰を入れる。
ここでいつもならケチャップの登場だけど、ここでちょっと趣向を変えてみようと思った。
この考えが大失敗だった・・・。
以前に飲んだチキン・スープの粉を持っていた。
これはお湯を溶かせばスープになるもの。
炒めた野菜をスープにして食べてみようという試みだ。
炒め終わって、水を注ぎ、沸騰したらスープの粉を入れる。
なんだかとろみがあってドロドロになってしまった。
なんだか怪しい色に変わっていく。
「・・・大丈夫か?」
このスープを飲んだのは2ヶ月前で、かなり時間が経っているが、まぁ、死ぬ事はないだろう。
その上にゆで卵を3つ置き、これで完成だ。
スプーンですくって口に入れる。
「・・・・」
言葉が出ない。
「いや、うまいよ、うまい。特にゆで卵が。」
自分にいいきかせる。
天からの質問があった。
「ゆで卵ではなくて、スープはどうなんだ!?」と。
再びスープを食べる。
「・・・・」
「正直に言います・・・。スープは美味くありません・・・」
原因はサーディン(イワシ)にチキン・スープを使ってしまった事。
組み合わせがいけなかった。
まぁ少し考えれば分かりそうなものだけど。
スープがカツオ風味とかだったら、イケていたのかも。
やっぱりチキンにはチキン、魚には魚、牛には牛だなぁ。
チキンと組み合わせを考えましょう。
【2005年12月 旅日記】
■自然の恵み

リベルタドーレス峠へ向けて走る。
道はメンドーサ川に沿っているが、うざいアップダウンが続いている。
標高2,500mを越えたのに依然として暑く、ジリジリと焦がされる。
まるで背中に火鉢を背負っているようだ。
所々にトンネルがあって、岩盤を刳り貫いた天然堀。
岩が剥き出しになっていて、その中に入るとひんやりして、かなり気持ちがいい。
一時の清涼感を味わさせてくれる。
そして、一番暑い3時頃になった。
ヒイコラ言ってペダルをこぐ。
ふと横を見たら、なんと湧き水が沸いているではないか。
早速、手をかざしてみると、恐ろしく冷たい。
上を見ると、遥か彼方に山々が見え、アンデスの雪解け水のようだ。
岩盤からパイプが出ていて、これは「飲めます」のサインだ。
手に汲んで口に運ぶ。
キンキンに冷えていて、死ぬほど美味い!!
ゴクゴクと喉を鳴らして飲む。
そして、顔を洗う。
顔だけでなく、頭から水をかぶる。
かなり、気持ち良く、まさに生き返る瞬間だ。
この際、Tシャツも濡らしてしまおう、洗濯も兼ねて。
かなり冷たいので、長時間水の中に手を入れておく事が出来ない。
ペットボトルの水も暑さでぬるま湯になっているので、入れ替えて出発。
濡れた髪が風になびくと、冷たくて気持ちがいい。
水は止め処なく絶えず流れ出ている。
アンデスからの恵みに感謝。
【2005年12月 旅日記】
■闇

「一寸先は闇」と言う言葉がある。
旅をしていると、あまり闇ばかりだとは感じない。
「一寸先は闇か光」。
闇の時もあれば、光の時もあり、どちらに転ぶかは、神のみぞ知る。
もちろん、自分の考えや行動如何によっても変わるだろう。
「光が来る」と信ずれば、光は来るだろうし、「闇が来てしまう」と思えば、闇は来るだろう。
しかし、闇が来たからといって落胆はしない。
何故なら、闇が来たら次には光が来る。
そう、夜が終われば、朝陽が登るように。
人生、楽(光)あれば、苦(闇)あり。
苦もまた、楽への道標だと思えば、乗り越えられるものだ。
さて今度はどんな光が、どんな闇が待っているんだろう。
【2005年12月 旅日記】
■標識 その3

チリ国境への峠に向けて走ってる時、標識が現れたので、今度は何の標識だ?と思って見てみる。
なんと!
「この先酔っ払い注意」だ。
千鳥足だけど、きちんと荷物は離さずによろけている。
こんな山奥に酔っ払いかよっ!!と思いつつ走る。
なんて事は無い、この先にヘンダメリア(軍隊)が居て、パスポートチェックをしていた。
つーか、酔っ払い注意なんて標識があるかっ!!
【2005年12月 旅日記】
■泥棒

メンドーサを出発。
今までは南下をしていたが、一路、西へと進路を変えてチリへと向かう。
遠くにアンデスが雪を纏っていて眺めがいい。
標高720mのメンドーサから、徐々に標高を上げていく。
雪山を眺めながらの走行は本当に楽しい。
周囲は渓谷になり、メンドーサ川に沿って道は続いている。
今日は野宿なので、野宿ポイントを探す。
道は渓谷なので左手は崖、右手には川が流れている。
どうも良い場所が無く、どうみても道路から丸見えだ。
ふと道の先に、工事車両のブルドーザーやシャベルカーが止まっていたので、そこに行って見る。
道路からは5mぐらいの場所で、かなり道路から近いけれど、ちょうど工事車両が死角になっている。
地面も平らだし、まあいいだろう。
最近は暑いので、テントを張らずにアルミ・シートを敷いて、その上にマットを敷いて寝ていた。
自分のテントは黄色なので、ただでさえ目立つ。
工事車両はかなり大きいので、テントを張らなければ大丈夫だろう。
と言う事で、今日の寝床はここに決定。
日が暮れるまでには数時間ある。
この辺りの日没は夜8時ぐらいなので、それまではゆっくりする。
だいぶ太陽が傾き、涼しくなってきた。
夕飯を食べ、日記も書き終わり、眠る用意をする。
暑いので寝袋はただはおるだけ。
いつものように眠りに付いた。
どのくらい経ったのだろう、車の音で目が覚めた。
ふと見ると、工事車両の横に車が止まっている。
やばい、見つかったか?と思いつつ、車を見ていると、何事も無くそのまま行ってしまった。
時間を見ると、深夜2時。
間髪入れず、再び車がやってきた。
どうやら先ほどの車とは違うようだ。
そして、2人の男が降りて来て、その2人の男は工事車両に近づいてきた。
こりゃ、やばいぞ・・・と思ったのも、時既に遅く、見つかってしまった。
向こうも驚いたらしく、1人の男性が「何してるんだ?」と聞いてきた。
自転車で旅している事を言うと納得してくれたようだ。
話しかけた男が、自分に対して、「何も問題ないから寝ていな」と言う。
そして、もう1人が幾つか大きなポリタンクを持ってきた。
どうもこいつら怪しい。
マットに横になって一部始終見ていた。
兄貴分らしき男がホースを取り出して、工事車両の燃料タンクのコックを捻る。
そして、その穴にホースを入れる。
納得できた、こいつら、ガソリン泥棒だ。
お約束、ホースを口で吸い、ホースの先からドボドボとガソリンが流れる。
もう1人の男がすかさず、ホースの口をポリタンクに入れ、ガソリンがポリタンクに溜まっていく。
ポリンタンクは大きさからして20Lぐらいで、それを8つぐらい持っている。
男達は無言で動いている。
時々、車がやってくるので、その時は工事車両に隠れる。
もう怪しさ100%と言うより泥棒100%だ。
そして、全てのポリタンクを満タンにして、何も言わずに車をスタートさせて行ってしまった。
こちらには全く被害は無く、無事だった。
目の前に家財道具一式を持っているエサが寝ていると言うのに。
そのエサには目もくれずガソリンだけを盗んでいった。
ガソリンがそれほど欲しかったのか??
なんとも運が良かった。
うーむ、野宿する場合は、やっぱり道路から離れた方がいいなぁと感じた。
それにしてもアルゼンチン。
やっぱり危ない国なのかもしれない。
【2005年12月 旅日記】
■やっぱり先進国?

メンドーサからいよいよ、リベルタドーレス峠を越えてチリへ向かう。
メンドーサ郊外を走っていたら、アメリカ合衆国にあるスーパーの「ウォールマート」があるではないかっ!!
これには正直驚いた。
ウォールマートはアメリカ合衆国内にあるチェーン店の大型スーパーだ。
食料品から日用品なんでも揃っていて、値段も安いので、当時はよくお世話になったものだ。
それがなんとアルゼンチンにあるとは・・・。
メキシコシティで見て以来、中南米では見ていなかった。
やはり、アルゼンチンは先進国の1つなのかな?
いや、1ペソ=1ドルの好調アルゼンチン経済の時の残骸なのだろう。
【2005年12月 旅日記】
■アルゼンチン

18カ国目のアルゼンチン。
ヨーロッパからの移民が多いので顔は皆白人系で、食については、牛肉やワインは安くて美味い。
南部パタゴニアは、アウトドアズ・マンにとっては憧れの大地。
以前は1ドル=1ペソで物価は高かったけれど、経済が崩壊して1ドル=3ペソになり物価は安い、などなど。
チリからアルゼンチンへ「シコ峠」を越えて入国。
初めての村は「サンアントニオ」だった。
まだボリビアに近いせいか、人々は素朴で先住民系が多かった。
カファジャテ、サンタマリア、ベレン、チレシート、ハッチャル、メンドーサと幾つかの街を通り南下してきた。
そして、アルゼンチンという国の文化を自分なりに感じてきた。
その感じた事は・・・。
文化として見ると、まず「シエスタ(昼休み)」が恐ろしく長い。
中南米では、店にも昼休みがある。
日本のように交代して働く、という事は無い。
店自体が閉まってしまい、今までの国は大体14時から16時ぐらい。
しかし、それがアルゼンチンは13時から18時まで。
アルゼンチンには、観光にも力を入れているのか、各町にはインフォメーション・センターもある。
しかし、そのインフォメですらシエスタがある。
自分の場合、街に着くのが14〜15時ぐらい。
インフォメに行っても閉まっているため、情報を得る事が出来ない。
何のためのインフォメなんだかわからない。
オーストラリアやアメリカ合衆国のインフォメにはシエスタが無い。
いつも開いていて、情報を提供してくれる。
だから、すごく旅がし易かった。
アルゼンチンに入国後、運悪く、自転車の小さいトラブルが続いていたので、自転車屋を探したかった。
しかし、インフォメは閉まっているので、自転車屋が何処にあるかわからない。
宿の人に聞いても、「う〜ん」と首を捻ってしまう有様。
レストランも閉まっているため、食事もできない。
開いているのはインターネット屋かアイス屋のみ。
街中は人っ子一人いなくなり、ゴーストタウンに早代わりし、居るとしたら中央公園の日陰で昼寝している人ぐらい。
18時頃になると、店がちらほら開き始め、人々が増え始める。
20〜21時頃になって、ようやく夕飯の用意が始まる。
18時にレストランに行っても、まだ準備できていないからと追い返されてしまう。
中央公園には、夜中の0時になっても人々が溢れ、子供達が遊びまわっている。
カフェやレストランでも、その殆どにテラスがあって、そこで食事やマテ茶を飲む。
この「テラスで食事」と言うのは、まぎれも無くヨーロッパ文化であろう。
人々はヨーロッパからの移民が多いため、白人系の顔をしている。
金髪で青い瞳、スラッとして背が高く、女性も痩せていて美人が多く、男性もマッチョ。
どうみてもペルーやボリビアで見た先住民とは全く違っている。
白人系だからかどうかは知らないが、あまりフレンドリーではない。
今まではいつも「何処から来た?何処へ行くんだ?」と会話が始まって、色々と話す事が多かった。
しかし、アルゼンチンでは皆無に近く、どうやら他人の事には、興味が全く無いのかもしれない。
面白いのが、店などでの会話。
ペルーやボリビアでは店に入ると、「オラ、アミーゴ!(よう、友達!)」と言うのがお約束だった。
始めは抵抗があったけれど徐々に慣れてきて、「肩肘張らずにいこうぜ!俺とお前は友達だ」みたいな親近感があってよかった。
しかし、アルゼンチンでは違い、店に入ると「シィー、セニョール(たまにカバジェーロ)」と言う。
セニョールやカバジェーロとは男性の敬称で、英語では「ミスター」にあたる。
どうも「私達アルゼンチンとあなた達とは違うのよ」と一線を引いているような感じがする。
確かに丁寧でいいのかもしれないが、なんだか親近感が無い。
態度は、どの国も悪い人は居たけれど、上記のように感じる分、アルゼンチン人の方が冷たく感じる。
なんだか、鼻にかけるようにお高くとまってる感じが、女性に多い。
スペイン語も今までの国とは違い、独自の単語を使っている。
しかも早口で聞きづらく、最初はかなり手間取った。
それに英語を話す人も多い。
観光客だとわかると、英語で話しかけてきてくれる。
それはそれで気を使ってくれて嬉しいが、自分は英語はもう忘れてしまっているので、「スペイン語でいいよ」と言うと、
「ちっ、なんだ、折角英語で話してやってるのに」とあからさまな顔をする人が多く、「なんだスペイン語話せるんだ??」と驚く。
どうもこの辺りは欧米人系に見られる「英語に対する優越感」みたいのを感じる。
英語圏の人々は、相手が必ず英語を話せると思って話しかけてくる。
で、英語ができないと全く相手にしない。
ペルーやボリビアの人々は、英語がほぼできない。
そのため、スペイン語で話すとすごく親しくしてくれる。
外国人が日本に来て、英語で話すより日本語で話す方が、親密感があるのと同じだろう。
それに自分はなるべく現地の言葉を覚えて、話したいと思っているから、スペイン語で会話をしたい。
ここでは、早口なので聞き直したり、「ノー、エンティエンド(分からない)」と言うと、露骨に嫌な顔をする人が多い。
これも特に女性。
自分が感じたこと。
それは、アルゼンチン人は「勘違いをしている」と。
そして、アルゼンチンは「すごくプライドが高い」と。
1ドル=1ペソの経済の時は、先進国並にモノが溢れていたかもしれない。
今はその面影も無いのに、まだ「私達は南米でも他国とは違う」という雰囲気を未だ持ってる。
まさに、当時の栄光を引きづっていると言っても過言では無い。
しかし、先進国並みに働くかといえばそうでは無い。
他国のラテン文化と同じで、時間にはルーズで怠け者が多い。
シエスタが長い証拠だ。
郵便事情も悪く、荷物が無くなる事も多い。
最貧国ボリビアですら、荷物は確実に届いている。
どうも先進国と発展途上国の悪い部分を持ち合わせているような感じがしてならない。
自転車の旅は、人々の生活に密着しているので、良い点も悪い点も見れてしまう。
まぁ全てのアルゼンチン人が、こういう人ばかりではないというのは自分でも分かっている。
これからは、その嫌な気持ちを捨てて、一からアルゼンチンという国を見て見たい。
【2005年12月 旅日記】
■マック

メンドーサに無事に到着。
到着したのは午後4時で、お約束、殆どの店が閉まってる。
この街は、アルゼンチンの中でも第三の大きさの都市なのに、街中はほぼゴーストタウン。
しかも、皆、本当に昼寝をしているようだ。
腹が減ったので街中を歩く。
レストランは当然、全部閉まってる。
おいおい・・・餓死してしまうよ。
歩いていて目に入ったのは「マクドナルド」。
オーストラリアやカナダ、アメリカ合衆国ではファースト・フードには行っていた。
しかし、メキシコ以南は一度も行った事が無かった。
その理由は「値段が高い」からで、普通の現地の食堂で食べた方が安い。
アルゼンチンのマックは、世界一安いと言われている。
理由は1ドル=1ペソのアルゼンチン経済が崩壊してしまっただとか。
入ってメニューを見てみると、「ビッグマックセット」が10ペソ(約310円)。
これには本当に驚きだ。
日本では600円近くすると言うのに。
早速、頼んでみる。
がっ!出てきたハンバーガーはすごく小さく、ポテトも少ない。
マックって世界規模のチェーン店だからレシピは同じはずなのに・・・。
これだと普通のレストランの店の方が、大きいし安い。
かなり期待はずれだった。
他のレストランのハンバーガーに見慣れてしまったのだろう。
中米諸国ではマクドナルトのファースト・フードは、かなり地元の人々にとって高価なものだ。
いくらセットと言えど、4〜6ドルは地元の人々からすると、かなり高い。
そう簡単には食べれない。
ボリビア第2の都市サンタ・クルスでの話。
若者にある人気の通りがあり、そこにはお洒落なカフェやレストランが立ち並ぶ。
当然、世界のマクドナルドもそこに進出してきた。
マックの値段はセットメニューで、やはり4〜6ドル。
ボリビアのメルカド(市場)では、1食3ボリビアーノ(約45円)で食べられる。
その味は美味いか不味いかは別として、かなり安い。
その値段が庶民の価格レベルなのだから、1食5ドルは出せないだろう。
そのマクドナルドの前を通る時に中を見てみると、やはり富裕層の客が多い。
恐らく「今日はパパの給料が入ったから、豪華にマックに行くか!」と子供達に言っているのだろう。
若しくは、彼氏が彼女に向かって「今日は君と出会って1年目。その記念日にマックでご馳走するよ」と言って、彼氏が奮発しているんだろう。
それほど地元の人々にとってみれば「高嶺の花」なのだ。
ちなみに、そのサンタ・クルスのマクドナルドは、結局赤字が続き、撤退してしまったらしい。
世界で初めて、マックが赤字で撤退した国が「ボリビア」らしい。
恐るべしボリビア。
マックの経営陣も、もうちょっと市場調査をすえばよかったのに・・・。
現在は、マックの場所に「バーガーキング」が出来ている。
その看板には「安い!セット25ボリビアーノ!」と書かれている。
恐らくマックと同じ末路を辿る事は言うまでも無いだろう・・・ご愁傷様。
ちなみにアルゼンチンのマックで注文した時。
店員の女性は、絵に描いたように「ニカッ!」と笑ってくれた。
海外のマックにも「スマイル」はあるのだろう。
【2005年12月 旅日記】
■陽

朝陽と夕陽が大好きだ。
朝陽を見れば、今日一日頑張ろうと思うし、夕陽を見れば、今日一日ありがとうと感じる。
綺麗な朝陽や夕陽を見るのは以外に難しい。
その時の天候や大気の澄み具合などにも拠る。
その時はメンドーサへ到着する日だった。
いつものように朝早く起きて出発し、暗がりの中をペダルをこぐ。
東の空が白み始めて来る。
また暑くなるのか・・・とテンションも下がる。
しかし、その朝陽を見ると「よしっ、頑張るかっ」という気になる。
今日一日、またよろしく。
【2005年12月 旅日記】
■またしてもトラブル!?

メーターが誤動作しまくりの時、それに合わせるかの様に、今度は左のペダルから異音が聞こえてきた。
なんだか走っていると、ペダルがガリガリする。
グリスが無いのかな?と思ったけど、完全にシームされているのでグリスを注入する事ができない。
もうこれも寿命かな。
思い切って交換するかと思い、自転車屋を周る。
しかし、シエスタの為、日中は店が殆ど閉まっている。
開くのは18時とか、訳の分からない時間で、本当にアルゼンチン人は怠け者だ。
店が開くまで待つしかないが、せっかく待ってもロクなモノが無い。
本当に期待外れだ。
結局、チェーン・オイルを染み込ませたら、なんとかガリガリ音が止まった。
まぁクランクからペダルが折れない限り、走れるから大丈夫だろう。
なんだか小さいトラブルが多い。
またしても、路上に綺麗な花が咲いていて、「大丈夫!まだまだ行けるよ!」と励ましてくれた。
【2005年12月 旅日記】
■トラブル

なんだか、スピード・メーターの調子がおかしい。
自分の自転車には、スピードを計測するコンピューターが取り付けてある。
自転車で旅する人であれば、殆どの人が取り付けている。
このメーターは、スピードだけでなく、積算距離、1日の走行距離、平均速度、走行時間などが表示される。
アラスカでフロント・バッグを盗まれた時に新たに購入した。
コードレスタイプなので、ケーブルの取り回しが必要ない。
弱点としては、コードレスなので磁器などがある場所では誤動作をしてしまう事。
今まではあまり気にならなかった。
しかし、最近は調子が良くない。
最近は暑いので、朝早く出発。
この時間帯は、問題なく動作していて、誤動作は無い。
しかし、徐々に時間が経つにつれて暑くなってくると、それにつれて誤動作が多くなってくる。
暑さがピークの14時頃には誤動作しまくりだ。
20km/hぐらいで走っているのに、10km/hとか5km/hとか表示している。
電池が消耗したかなと思い、交換しても変化無し。
センサーとコンピューター本体の距離を縮めても変化無し。
はて・・・?いきなりイカれたのか??
持ち主同様、暑さに弱いのかな??
こんな事が数日続いた。
これだと正確な距離がわからないので交換する事にした。
アルゼンチンの自転車屋はパーツが豊富と聞いていたが全くお話にならない。
全くもってロクなモノが無い。
アルゼンチンで4番目に大きな都市メンドーサでも無い。
しょうがないから、チリに期待するしかなかった。
そして、ビーニャ・デル・マルという街で新しいメーターがあったので購入。
新しいメーターは、コードがあるタイプで、恐らく誤動作という事はなくなるだろう。
これからよろしくね。
ちなみに、メーターは日本製品の「キャットアイ」がベスト。
本当に自転車パーツでのトラブルが多い。
なんとかならないものだろうか・・・。
こんなトラブルには負けるなよ!と言わんばかりに路上には綺麗な花が咲いていた。
【2005年12月 旅日記】
■標識 その2

その劇坂もどきをクリアして順調に走っていた。
道路は再び未舗装路になったけど、特に問題は無い。
そして、前方に再び標識が現れたので、今度は何だろう?と思いつつ近づいてみる。
今度は「この先、急カーブあり」の標識。
しかし、そのカーブがすごい。
カーブというより鋭角だ。
そんな道があるの?って感じだ。
対向車が来たら危ないなぁと思いつつ走った。
なんてことは無い、ただのS字カーブだった。
本当に大袈裟・・・。
【2005年12月 旅日記】
■標識

ワルフィンを出発して、一路ベレンへ向かい、その途中に走っている時に見た標識。
「この先、上り坂有り」の意味。
それにしても、すごい傾斜の坂だ。
なんだか、車でも大変そうだ。
自転車で登れるのか??
なんてことは無い、大した事無い坂だった。
【2005年12月 旅日記】
■でかっ!!

この地域にある植物は、何故か棘を持っている。
しかも、その棘がでかく、どうやったこんな棘ができるんだ?って感じ。
長さは4cmぐらいもあるので、野宿するためにうっかり道路からそれて、走った日にゃパンクだらけだ。
メキシコでの事。
野宿するために道路からそれて、自転車を押していた。
なんだかハンドルが重くなるのでタイヤを見てみたら、なんとパンク。
あれ??と思ったら、そこは辺り一面、棘棘地帯。
前後輪ともにタイヤに棘が無数にささっている。
しょうがなく自転車を置いて、野宿ポイントまで荷物を担いでいった。
そして、テントを設営の後、その数を数えたら、フロントチューブ16箇所、リアチューブ17箇所の穴があいていた。
もう唖然でビックリ。
一度にこんなにパンクしたのは初めて。
なんでこんなに・・・といった感じ。
幸い、前日に自転車屋でパッチを50個買っていた。
買う時は「誰がこんなに使うんだよ」と思っていた。
いや、実際に使うんだなぁと感じた。
2005年12月14日現在でパンク回数90回。
果たして100回記念は何処でパンクするのだろうか?
そんな、無駄な記念は来てほしくないけどなぁ。
【2005年12月 旅日記】
■得?徳?

毎日暑さを我慢しながら、メンドーサに向けて走る。
暑いのは嫌いだ。
だから、太陽が出る前に、朝早く起きて走り出す。
また今日も暑くなるのかと思うと、うんざりする。
誰が言ったのだろうか、「早起きは三文の得」。
この日は珍しく朝から曇っていて、ラッキーと思いつつ、ペダルをこぐ。
そんな時、雲の隙間から太陽の光が差し込んだ。
思わず、その神々しさに自転車を止めて見入ってしまった。
なかなか暑いのもマンザラではないかも。
昔の人はいい事を言ったものだ。
暑い日は、早起きするに限る。
【2005年12月 旅日記】
■暑いの嫌い

暑い、とにかく暑い。
なんで、こんなに暑いんだ?
標高だって1,000mぐらいなのに、気温は35度以上になる。
季節はまだ春なのに、夏になったらどうなるんだ??
アルゼンチン北部は灼熱の大地。
毎日半袖、短パンで走る。
当然、日中は暑いので、太陽が出る前に出発し、14時か15時頃には、走るのを止める。
夏なので陽が長く、夜の9時頃まで明るい。
だから暑さのピークは14から164時。
自分は陽が長いからといって長時間は走らない。
一定の距離、一定の時間で走るのが、長く走るコツだ。
長く走ると、身体にも負担が掛るし。
宿に入って部屋で寝ても、暑くて寝苦しい。
夜になると、外は20度ぐらいまで下がるので快適だ。
何故、金を払って寝苦しい思いをしなければならない。
そう考えたら馬鹿らしくなって、久々に野宿をする事にした。
ボリビアでは、宿代が200円ぐらないので、野宿はしていなかった。
アルゼンチンも大体400円ぐらい。
15時頃に走り終えてもテントは張らない。
じっと日陰で陽が暮れるのを待つ。
大きな樹があればベストだ。
今は南下しているので、樹が道路に向かって右側(西側)に生えているとダメ。
理由は西に陽が落ちるので、テントは道路から丸見えになってしまう。
左側(東側)にあれば道路からも見えない。
アルゼンチンの道路には、よく橋があるが、何故か川は流れていない。
この橋が以外にベストスポット。
ちょっと間違えれば、そっち方面の人と思われてしまうが、橋の下はコンクリートなのでヒンヤリして気持ちがいい。
時にはテントも張らずに、そのままシートを引いて寝る事もある。
その方が涼しくて快適で、しかも星を眺めながら、眠る事が出来る。
寒さに震えていた標高4,000mのボリビアに戻りたい!
【2005年12月 旅日記】
■新メニュー

夕飯は、安くつくので、大体自炊をしている。
ただ、中南米では、逆に自炊した方が高くつく場合がある。
街に居る場合は、肉や野菜を買ってきて炒めて食べる。
ただアルゼンチンに入ってからは、肉がうまいので肉を買ってきて食べている。
パスタは茹でてトマトソースをかければ、すぐに食べれるので簡単だ。
しかし茹で終わった後、水を捨てるという行為がどうも許されなかった。
まして、無補給区間では、そんな事はできない。
そう考えると、やはり米がベストだ。
自分は、野宿の時は洗米しないので、水もそんなに大量に使わない。
難点は、米だけでは食べれないので「おかず」が必要となってくる。
街が無い場合は、以前にも書いたように、玉ねぎを炒めてツナ缶を入れ、卵でとじるようにしている。
水も必要無いから、これが定番だった。
しかし、さすがにそればかりだと飽きるので色々と考えた。
ポイントは以下の通り。
1. 水をあまり必要としない
2. 材料が日持ちするものであって、尚且つ軽量である
3. 腹持ちがいいもの
4. 短時間でできるもの我侭を言ってしまう
そして、新たにレパートリーに追加したのがこれ。
まず、スライスしたニンジンを炒める。
火が通ったら、同じようにスライスしたジャガイモを炒める。
そして玉ねぎを入れる。
全てに火が通ったら、ツナ缶を入れ、少々のダシを入れて、味付けはケッチャップ。
まぁ、はっきり言って、今までのと大して変らない。
卵は携帯するのに気を使うのでヤメた。
新たな発見がケッチャプ。
ケッチャプの味付けは、食欲を促進する事がわかった。
本当に促進するかどうかは別として、自分はそう感じた。
生肉は携帯するのは難しいので、やはりそれに変るのはツナ缶しかない。
称して「ツナ入り野菜炒め」で、そのまんまのネーミング。
野菜の栄養も取れるのでなかなかグッド。
ただ、難点は炒めるのに時間が掛かる事。
火が通りやすいように、スライスは極力薄くしている。
まぁ、燃料のガソリンは何時でも入手できるから問題は無いんだけど。
ケチャップは走行中にパンにつけて食べてもOKなので、兼用ができる。
さて、これはどのくらい食べ続けられるだろうか・・・。
そう考えると、毎日、献立を考えている、世界中の母親はすごい。
【2005年12月 旅日記】
■裏目

翌日、タイヤを交換。
アグアネグラ峠の状況を聞くべく、インフォメーションセンターへ行く。
アグア・ネグラの道路状況を尋ねると、インフォメの人が言った。
「アグア・ネグラ?ああ、あれね。まだ雪が多くて閉まってるよ。」と。
「??はい??」
「多分、閉まってるよ。近くにヘンダメリア(軍隊)があるから詳細はそこで」と、地図に場所を書くインフォメの人。
なんだと・・・閉まってる??うそでしょ??
確かに今の時期は春だけど、閉まってはいないだろうと期待を込めてヘンダメリアへ。
そして、同じように訪ねると、受付の人は言う。
「アグアネグラ?雪で、まだ閉まってるよ。自転車??無理だよ、そんなの。
峠を越えられても、アルゼンチンのイミグレに人がいないからね。
チリ側のイミグレが開いていても、アルゼンチンの出国スタンプが無いから追い返されるよ。」
声が出なかった。
頭の中で、ブチブチと血管が切れていくのが感じた。
ふざけるんぢゃねーぞ!!
「なんでアルゼンチン側のイミグレは開いてないの?」聞くと、「知らない」という。
「なんで知らないんだ!!ここは軍隊だろ??」とくってかかると向こうもイミグレは管轄ではないという。
でた、お役所のお約束の責任転嫁。
タイヤも買って、準備は万端だというのに!!
タイヤを買った意味が無い!!
折角、手間暇掛けたと言うのに・・・。
そして「メンドーサまで南下して、チリのサンチャゴに行きなさい」と。
ふざけるな!!その峠は舗装路でつまらないんだよ!!標高も低いし。
せっかくここを越えて、チリに行きたかったのに。
メンドーサからサンチャゴへ行く峠は「リベルタドーレス峠」と言い、峠にはトンネルがあって走る事ができない。
トンネル内を自転車で走るのは、危ないからだ。
軍隊のトラックにキャリーされてチリ側に行ってしまう。
標高も3,200mとたいした事無いし、全線舗装路だが、アグアネグラ峠は標高4,779m。
未舗装路という事もあって大変だけど、おもしろいに違いない。
自転車で旅しているからには、より高い峠を越えた方がおもしろい。
チリ側に行く道は、アグアネグラ峠の北に「サンフランシスコ峠」があって、標高は4,700m台。
しかし、再び戻るのは嫌だし・・・。
チリに抜ける道はこの3つの峠しかない。
殆どのサイクリストがリベルタドーレス峠を走ってる。
他の人と同じ道を走ってもしょうがないのに・・・。
しかし、しょうがない、リベルタドーレス峠に行くしかない。
くそ・・・アルゼンチンめ・・・。
雪だから、走れないだと・・・?
暑いから働かないだの、雪だから働かないだの、おかしいだろ??お前ら。働けよ。
これによって、かなりアルゼンチンに対して不快指数が溜まったのは言うまでも無い。
折角、タイヤ交換して、カラーも車体と同じで統一感が出たというのに・・・。
ついてないなぁ、くそっ。
【2005年12月 旅日記】
■タイヤ購入

ハッチャルという街になんとか到着。
このままの状態では、アンデス越えは無理だ。
ここハッチャルが、アグアネグラ峠の起点となる街なので、どうにかしないと。
お約束、ハッチャルには良いタイヤが無い。
160km南にサン・ファンという大きな街があるので、ここにだったらあるかもしれない。
街について、すぐにサン・ファンという街でバスに行き、そこでタイヤを買って、また戻ってこようと決めた。
15時発のバスでサン・ファンへ向かい、17時半に到着。
さすがに、シエスタ(昼休み)は終わっているだろう。
タクシーで最寄の自転車屋に行ってみる。
がっ!ごつごつしたブロックパターンのタイヤのみ。
贅沢かもしれないが、セミスリック(舗装路と未舗装路が走れるタイプ)が欲しい。
2件目、3件目と行くがロクなものが無い。
4件目の店は品揃えが豊富だった。
ドイツのシュワルベ、フランスのミシュラン、アメリカのリッチーなどが置いてある。
ただ、セミスリックが無く、全てブロックパターンのみ。
色々考えた挙句、リッチーの26インチ*2.1を買った。
2.1ではちょっと幅が太すぎるかな・・・と思ったけど贅沢は言ってられない。
1つ25ペソで、2つで50ペソ(約1,700円)と言う驚きの安さ。
アグア・ネグラ峠は、未舗装路だから、このタイヤでも良いか。
まぁ、色もグレーなので、車体カラーとマッチしているし。
これでなんとか大丈夫だろう。
そして、19時半のバスで、再びハッチャルに戻ると言う、なんとも慌しい行程だ。
その間、何も食べていないので、かなり空腹。
なんとか、真っ暗になりながらも、ハッチャルに到着し、一安心して眠りについた。
しかし、翌日は悲劇が待っていた。
【2005年12月 旅日記】