■またしても!!  


メーターの誤動作、ペダルからの異音などの問題をなんとかクリアしつつ、走り続けていた。
1つが綻び始めると、あれよあれよとトラブルが発生した。
まぁ、トラブルなんてのは、こんなもんんだろうなぁ。

その日は後輪が棘にやられてパンク。
すぐに修理して再出発するが、しばらくして、今度は前輪がパンク。
久しぶりの1日に複数パンクだ。

次の町まで20kmと迫った時の事だった。
走っていたら、いきなり、パアーーーーーンと言う音がした。
何が起きたんだ?と思いつつも、周囲を見回すが何も無い。

「はて??」

と思ったのも束の間、ハンドルが取られたので、前輪を見てみると、なんと空気が抜けている。
まさか・・・と思って、タイヤを見てみると案の定、バーストしているではないか!!
おいおい、まじかよ・・・。

このタイヤは、ペルーのクスコで交換してからまだ3,000kmしか走っていないのに!!
よく見てみると、タイヤのサイド・ウォールが裂けている。
また、バーストかよっ!!!

バーストしたタイヤは、ドイツ製のコンチネンタル、製品名は「TOWN&COUNTRY」。
初めてこのタイヤを使った時は、15,000kmも走ってくれたのに、まさかのバーストとはビックリ。
実は、このタイヤ、以前も同じような事が起きている。

オーストラリアで、このタイヤを買い、スペアとして持ち続けていた。
何も包まずに携帯しており、常に太陽に晒していたので、紫外線による劣化が進んでいたのだろう。
アラスカを走っている時にバーストしてしまった。

走行距離は僅か3,000kmと言うあり得ない距離。
あの時は運悪く、スペア・タイヤを持っていなくて、雨の振る中に15km押して前の町に戻ったっけ。
あれは、必ずスペア・タイヤは持とうと決めた出来事だった。

今回バーストしたタイヤは、カナダのカルガリーで購入したもの。
紫外線による劣化が無いように新聞紙で包んで、その上からビニール・テープで巻いて紫外線から守っていた。
それにも関わらず、またしてもバーストするとは・・・。

今はスペア・タイヤは持っているけれど、同じようにしてビニールに包んである。
いちいちビニールを取るのも・・・思い、そこで縫う事にした。
幸い裁縫道具は持っている。

日陰も無い、炎天下の元、道路脇で裁縫が始まった。
意外に上手く縫えて、中のチューブが出てこないで、なんとか走れそうだ。
しかし、この状態では流石にアンデス越えは出来ない。

しかも持っているスペア・タイヤは1.5インチのスリックだ。
これから目指す峠は、アグア・ネグラ(標高4779m)で、アルゼンチン側とチリ側が未舗装路だ。
やはり、最低でもブロック・パターンのタイヤが欲しい。

次の街ハッチャルに自転車屋があるか・・・。
あってもいいタイヤがあるか・・・・。
メーターの時といい、ペダルの時といい、アルゼンチンの自転車屋は期待できない。

修理後、なんとか走って、ハッチャルという町に着いた。
自転車屋はあったけど、案の定、ろくなタイヤが無い。
まぁアンデス越え用と割り切ればなんでもいいのだけれど、パタゴニアの未舗装路でも使いたい。

うーむ、どうしよう。

【2005年11月 旅日記】


■トリコロール  


セザルに別れを告げて、チレシートを出発。
この辺りの日中は、かなり暑くなるので朝6時に出発。
まだ太陽は完全に顔を出していない。

しばらく走っていると、徐々に明るくなってくる。
その瞬間がたまらなく気持ちいい。
これからまた一日が始めるって感じだ。

今日はビジャ・ウニオンまでの約100km。
途中にダートが50km程あって、標高2,000mほどの峠がある。
まぁ、今まで標高4,000m以上を走ってきたので、無理ではないだろう。

道は山に向かって伸びていて、苦にならないほどの緩い上り坂が続く。
渓谷へ入って行き、周囲は赤い岩が露出している。
どうやらこの辺りは地質が他の場所と違うようだ。

道は未舗装路になり、エッチラオッチラと標高を上げていく。
雲が少し出てきて、日中は暑くなるので、雲の出現は大歓迎だ。
そして、ふと前方を見上げた時だった。

赤い岩、白い雲、青い空。

そこにはトリコロール・カラーのフランス国旗がなびいていた。
旅は、人との出会いだけではなく、美しい景色の出会いも、これまた旅の醍醐味だ。
その日は無事に標高2,020mの峠を越えて、ビジャ・ウニオンに到着できた。

今日一日、自然が創り出した偶然の産物に感謝。

【2005年11月 旅日記】


■日本語  


幾つかトラブルをなんとかクリアしながら、チレシートという街に到着。
いつものように到着した時間は、シエスタで、街中はゴースト・タウンのようだ。
インフォメーション・センターすら閉まっており、なんとか宿を見つけてチェック・イン。

アルゼンチンでは、18時を過ぎると街中が急に活気付く。
店が開き始めて、人々が闊歩する。
なんでも日中は暑いのでシエスタ(昼休み)が長いらしく、日本だったら考えられない事だ。

そん中、自転車のハンドルに巻くテープを探していた。
自転車屋を回っても専用のテープは皆無で、ビニールテープでもいいかと妥協して探していた。
そして、文房具屋の前を通り過ぎる。

ここにあるかな?と思い、入り口に立っていた男性にスペイン語で「テープはありますか?」と尋ねる。
返って来た返事は「いや、僕は店員じゃないんだ」と。
あ、これはこれは失礼しましたと思った矢先、その男性は日本語で言った。

「あなたは日本人ですか?」と。

「えっ?」

「そうだけど」と答えると、その男性はいきなり流暢な日本語で話し始めた。

彼の名前は「セザル」、年齢は27歳。
なんでも10年前に京都へ語学留学に行った経験があるようで、その時に日本語を覚えたと言う。
滞在期間1年間で、大阪、奈良、広島、東京にも行ったという。

自分は、日本語を話すのがかなり久しぶりだったので、咄嗟に出てくるのはスペイン語。
セザルが日本語を話して、自分がスペイン語で話すという、訳の分からない会話が続いた。
どちらが何処の国なんだ?と思ってしまうほど。

セザルの日本語がかなりうまい。
1年間でこんなに話せるものだろうか。
元々、頭がいいのだろう、「やばいよー」とか「〜じゃん」とかも知ってる。

好きなスポーツは、やはり南米だけあってサッカー。
今の仕事は英語をアルゼンチン人に教えているという。
しかし、来年からは弁護士の資格を取るために専門学校に行くという。

好きな食べ物はお好み焼きで、しかも広島風が良いとの事。
お好み焼きはアルゼンチンでも作れるけど、お好み焼きソースが無いからダメだと言う。
なかなか本格的で、ニクイ奴だ(笑)

ちなみに納豆は食べれるかと聞いたらやっぱりダメらしい。
あんなに美味いのに・・・ねぇ。
まぁ、外国人で納豆が好きな人はかなり稀だ。

スウェーデンの彼女が出来てようで、居酒屋によく行ったらしい。
焼酎や日本酒が好きで、かなり飲んで吐いた経験もあるらしい。
「軟骨が美味いよね〜」と言われた時は返す言葉が無かった。

しかし、驚いた。
まさか、こんなに流暢に日本語が話せるアルゼンチン人に出会うとは。
しかも、かなり日本人クサイ。

何度書いただろうか。
旅の醍醐味は「出会い」。
こういう出会いがあるからこそ旅が続けられる。

あの時、店に立っているセザルに「ビニールテープはありますか?」と声をかけなければこの出会いは無かった。
まさにビニールテープが、取り持つ縁だったのだろうか。
セザルの仲間達と一緒に写真を撮る(セザル本人は左から2番目)。

それにしてもアルゼンチン人はマッチョが多い。

【2005年11月 旅日記】


■サボテンの花  


この辺りは緑が多いので、路上には色とりどりの花が咲いている。
花を愛でる心はそれほど持ち合わせていないけれど、やはり見ていて気持ちがいいものだ。
北部の殺伐とした風景とはまるっきり違う。

そんなある日、サボテンが群生している場所を通過した。
高さ3mぐらいのサボテンもあり、生命力のすごさを感じさせてくれる。
そんな中に蕾を持っているサボテンがあり、もしかしたら・・・と思って、注意深く見ていた。

そう、花が咲いているサボテンを見たかった。
トゲトゲしているサボテンがちょっと垣間見せた美しい瞬間。
そのサボテンは白い大輪の花を咲かせていた。

それを見た時はまさに、財津和夫の「サボテンの花」を思い出してしまった。
あの歌は別れの悲しい歌詞だけど、このサボテンは力強く生きていた。
自分もこのサボテンに負けずに生きていきたい、と感じさせてくれた。

【2005年11月 旅日記】


■孤独  


逞しく、そして力強く、天に向かって両手を広げている彼。

僕は彼に話し掛けた。

「こんな荒野に一人で居て寂しくないかい?」 と。

彼は答える。

「大丈夫だよ。遠くにはアンデスの山並みが、そして、サンサンと陽光を注いでくれる太陽がいる。
時には恵みの雨をもたらしてくれる雨雲も。涼を運んでくれる風もいる。
みんな僕の仲間だよ。決して一人じゃないよ」

そして、彼は逆に自分に尋ねた。

「そういう君こそ、自転車で1人で走っていて、寂しくないかい?」と。

僕は答える。

「まぁ1人旅は気楽だからね、寂しくはないよ。
けど、親兄弟を始め、小中学校や高校の友達、以前の会社での同僚や上司、
そして、旅先で出会った人々のお陰で今の自分がいるのだから、決して一人で旅をしている訳ぢゃないよ」

彼は続ける。

「じゃあ、お互い孤独の身ではないんだね」

僕は答える。

「もちろん」

そして、僕は彼に尋ねた。

「僕も君のように逞しく、そして力強く生きていけるかな?」

彼は答えてくれる。

「もちろんだよ。」

僕は言う。

「そうか、分かった。頑張ってみるよ。
おっ、そろそろ僕は行くよ、まだまだ先が長いからね。
君も頑張ってくれよ。」

彼は言う。

「うん、ありがとう」

そして、「アディオス」とお互い同時に言い、彼に手を振り、僕はペダルをこぎ始めた。

そんな会話が聞こえてきそうな1コマだった。

【2005年11月 旅日記】


■暑さ  


サンタ・マリアを出発して、翌日はワルフィンという村に到着。
お尻もなかなかいい感じだ。
しかし油断は禁物だ。

標高は1,500mと高いのに暑く、10時頃には既に30度を越えている。
こんなに暑いとは聞いてないぞ!!
しかも、アスファルトの照り返しで更に体感温度は上がる。

この日は11時で既に40度を越えた。
この腕時計は肌の温度も測量してしまうので、実際は35度ぐらいなんだけど。
しかし、体感温度は40度ぐらいはあるだろう。

まぁオーストラリアの暑さと比べれば、なんともないんだけど。
あそこは本当にきつかった。
今まで走った中で一番大変だったのは、後にも先にもこの場所で、あの忌まわしき記憶が蘇る。

オーストラリアで一番暑い場所は北東部で、地域で言えばキンバリーとピルバラ地方と呼ばれる。
そこより北部であるトップ・エンドのダーウィンはまだ涼しい方だ。
この地域を走っている時、最悪な事に一番暑い10月で、連日日中は45度まで上がっていた。

だから毎日太陽が出る前に走り始めていて、4時半起床、5時出発。
涼しい時間帯にどれだけ距離を伸ばせるかが勝負になっていた。
いかに暑い時期にあまり走らないでいられるか、と言う考えしかなかった。

7時頃はまだ20度ぐらいだけど、9時を過ぎると既に30度を突破し、更に気温は上昇する。
10時には40度を軽くクリアし、とどまる事を知らない。
11時になると45度に達し、、そこから3時ぐらいまではずーっとこの状態が続く。

水はお湯に、風は熱風に、バターは油に、チョコはドロドロに。
唇はカサカサになり、目が熱風でショボショボする。
今思い出すだけでも、背筋がゾッとする。

ピルバラを走っていた時は、観測史上最高の気温46度を計測した。
体感温度は軽く50度を越えていただろう。
日向に置いてある温度計は、マックスの60度を振り切っていた。

この地域には「サンド・ファイア」というガソリンスタンドがある。
聞くところによると、「砂が燃えるように暑い」という事でこの名前が付いたらしい。
それほど暑いと言う事だ。

そう考えれば、ここのアルゼンチンはまだ涼しいのだけど、暑いものは暑い!!
暑いのは苦手で寒い方が好き。
標高4,800mで震えていたボリビアが恋しい・・・。

【2005年11月 旅日記】


■復活!!  


サンタマリアで休養する事、4日間。
8時間毎に座薬を入れていたので、流石に3,4回となる慣れた手付きだ。
しかし、入れる時はやはり躊躇いを感じるのは否めない。

そして、長かった療養も終わりを告げた。
「本当に治る日は来るのだろうか」と思った時もあったが、遂にその日がやってきた。
もうサドルにまたがっても、トイレに行っても痛みは無く、万事OKだ。

ただ1つ気になるのは、イボがそのまま残ってる事。
これって取れるのかな?それとも引っ込むの??
ほっとけば、そのうちなんとかなるだろうと、再び楽観的に考えた。

そして、サンタマリアを出発。
走りたくてウズウズしていた。
旅を続けられる事がすごく嬉しい。

やっぱり健康一番ですね。
皆さんも、急激に酒量を増やすのは止めましょうね。
たしなむ程度にね。

【2005年11月 旅日記】


■弾丸  


無事にサンタ・マリアに到着して、宿も人も驚いている。
さすがに「ちょっと自転車にトラブルがあってね」と、嘘をついてしまった。
一般人に恥ずかしくて言えるかっ!!こんな事。

シャワーを浴びて、すぐに薬局へ行く。
プンタ・デ・バラストのオバチャンは、医者に行った方が良いと言っていた。
しかし、薬局に行って、塗り薬で直そうと思った。

薬局で症状を再び説明する。
痛い個所、痛い理由をスペイン語で話すため、お陰で単語が増えた。
なぜか日本語で話すより、スペイン語で話す方が恥ずかしくない。

そして、軟膏らしきモノを買った。
軟膏で治るのかなぁ・・・と思いつつ、部屋に戻り、再び「恥ずかしい格好」をして、鏡を見ながら塗る。
翌日になって、トイレに行くと、また激痛が走る。

「よしっ!!」と、再び腹を括って、病院へ行く事にした。
インフォメーション・センターで場所を聞いて、診療所へ行く。
インフォメの人には、「どうしたの?」と幸いにも聞かれなかった。よかった・・・。

そして、診療所へ。
20ペソ(約700円)の診察代を払う。
去年、肝炎の時は、診察代50ドルと言われて断って帰ってしまったからなぁ。

医者に再び事情を説明する。
医者もなんとか理解してくれている。
そして、案の定「ベッドにうつ伏せになって」と言う。

「むむむ・・・。やはりそう来るか。しょうがない。覚悟はしてきた。来るなら来いっ!!」

医者はスボンを下ろす。
そして、オバチャンと同じようにクイッと尻を広げる。
さすがに2度目だから大丈夫。

もう遠くで崩れるような音はしない。
もう恐いものは無い!!
俺は無敵だ!!

医者は菊の御門様周辺を触り、「痛い?」と聞いてくるが、周辺は痛くない。
そして、その次の瞬間なんと!!肝心要の腫れている部分を思いっきり押すではないか!!
予期していなかった行動なので、思わず「いてぇ!!」て叫んでしまった。

そして、「OK」と言って、ズボンを履いて医者の話を聞く。
どうやら、やっぱり腫れていて、その頭から出血しているという。
原因は暑さのせいで蒸れたからだと。

「まじ??」

中米の方が暑くて、問題無かったぞ。
医者に行く前にネットで調べたら、「イボ痔」は酒の飲みすぎも原因となると書いてあった。
自分の今の症状はイボ痔かどうかは知らないが・・・。

それなら確かに記憶がある。
ワイン・デビューしたのも最近だし、ビールも以前より飲むようになった。
まさかワインが・・・。

そして「医者は飲み薬と座薬を買いなさい」と処方してくれた。
「え・・・?座薬??座薬なんて初めてだぞ・・・。今度はそう来たか・・・。」
しかも、医者が説明するには「指の第二関節まで押し入れる事」と言う。

「ふむふむ」と肯き、近くの薬局へ行き、処方してくれた薬を購入。
そして、いざ部屋に帰って、座薬を取り出す。
その座薬を見て絶句。

「・・・」

思わず声がでなかった。
すごい形だ・・・こんなの入るのか・・・??
まるで弾丸のようだ。

しかし、痛みは止まらない。
止まらないと旅は続けられない・・・・。
ここは再び腹を括って、座薬を入れる事に。

そう決意した時、走馬灯のように記憶が蘇って来た。

20歳の時に膝の手術をした。
手術後、膝が痛むので看護婦さんに痛み止めの薬が欲しい、と頼んだ。
てっきり飲み薬か注射だろうと思っていたら、看護婦さんは言う。

「お尻を出して」と。

「えっ!?」と聞くと「痛み止めの薬は座薬なの」と。
その看護婦さんは若くてかわいい子だった。
そんなに子にケツの穴なんて見せられるかっ!!って事で、痛みを我慢したのを思い出した。

恐る恐る、その弾丸を菊の御門様にあてがう。
弾薬の先が菊の御紋様に触れた時は、思わず身体がピクンと反応してしまった。
勿論、違う意味なので、勘違いなさらずに。

まずは先っちょが入った。

「おおっ・・・んんっ・・・」

なんとか、入っていく。
つーか、入るんだぁと感心しつつも、指を弾薬を押し入れる。
なんとか、半分ぐらいまで入った。

えぇ・・・?
これを指の第二関節まで入れるのぉ・・・??
そんな所まで入れてしまったら、あっちの違う世界に仲間入りしてしまいそうで、恐くてできなかった。

どうやら無敵ではなかったようだ。
しかし、根性でなんとか無事に全部入れる事ができた。
けど、第一関節までで、勘弁してください。

なんとも言えない違和感だ・・・。
ネットでは、日本人人口の約6割が「痔持ち」と書いてあり、そんなにいるんだと驚いてしまった。
みんなこうやって苦労しているんだ・・・と、痛みを分かち合えた瞬間だった。

頼むから早く治ってくれぇ〜。

【2005年11月 旅日記】


■初体験  


依然と菊の御紋様の痛みは納まらない。
本当にどうしたんだろう。
試しにサドルにまたがってみるが、「その個所」が直接当たらないので、大丈夫なようだ。

翌々日、サンタ・マリアを出発。
道は緩い上り坂で、サンタ・マリアが標高1,900m。
痛みはだいぶ無くなったようで、どうやら大丈夫なようだ。

最後の村であるプンタ・デ・バラストを通過。
ここから次の村であるナシミエトスまでしばらく村が無い。
道は舗装路なので問題無し。

今1つの問題は、そう「ケツの穴の痛み」だ。

プンタ・デ・バラストから10kmぐらい走って休憩。
だいぶ気温も暑くなり、「穴」が痛み出した。

「はて・・・」

暑くなると痛み出すのか?
ちょっと痛いので、ペダリングを止めて、橋の下で休憩。
どうやら本格的に痛み出した。

やばい。
この先には大きな町は120km先のベレン。
そこまでは約60kmの未舗装路を走らないといけない。

この状態でコルゲーションを走ったら・・・と思うと、躊躇ってしまう。
気合で行くか、それとも引き返して、治ってから前進するか。
これほど悩んだ時は無かった。

結局、コルゲーションによる刺激を考えるだけで、恐ろしくなり、サンタマリアに戻る事にした。
なんと痛恨の後戻り。
しかし、すでに50kmも走ってるし・・・。

自転車を押していくのは無理だ。
考えた挙げ句、プンタ・デ・バラストに戻る事に。
ここでバスを待つしかなく、最悪はヒッチ・ハイクだ。

我慢して10kmを引き返す。
この10kmほど今までの旅で長く感じた事は無かった。
なんとか、プンタ・デ・バラストに到着。

とりあえず、近くの店でバスがあるのか尋ねる。
どうやら、15時にサンタ・マリア行きが通るという。
今は12時で、時間はあるけれど、とりあえず良かった。

さっき、この村を通りすぎる時、ポリスと手を振ってサヨナラした。
そこのポリスと喋っていれば、時間は過ぎるだろうと思い、自転車を押してポリスの所へ。
ポリスも覚えていてくれたようで、「どうしたんだ??」と心配してくれた。

「どうしよう、なんて説明しよう・・・」
恥ずかしいというよりも最初に頭に浮かんだのは、「ケツの穴」はスペイン語でなんていうんだ??って事だ。
西日辞書をひいても載っておらず、他の身体の部位は載っているのに、肝心の「肛門」が無い。

しょうがなく英日辞書で、まず英語はなんというのか調べる。
まぁこれは予想通り「アナル」(食事中の方、すいません)。
それを今度、英西辞書で調べるが、またしても載っていない!!

とりあえずお尻を指差して、ポリスに「スペイン語でこの部分はなんていうの?」と尋ねた。
そしたら「アノス」というようだ。
ほほう、英語と似ている、やっぱり。

「ここが痛いから走れないんだ。バスでサンタ・マリアに行って休みたいんだ。」とポリスに言う。
そしたら、ポリスは「じゃあ、車を止めて、乗っけて行ってもらえるか聞いてあげるよ」と。
おおぉ〜、ありがたい!よろしくお願いします!!

待っている途中、ポリスが言う。
「ここに簡易診療所があるから、そこに行こう。」と。
「えっ!?診療所??という事は・・・」と考える暇も無く、ポリスは行ってしまった。

後をついて行ってみると、小さな建物の中におばちゃんが居て、ポリスが事情を説明してくれた。

おばちゃん曰く 「消毒した方がいいわね」と。

「えっ!?しょ、消毒??ちょ、ちょっと、ちょっと待って。」と自分。

オバチャンは問答無用に「そこのベッドに寝て」と言いながら、消毒用のゴム手袋をしてる。

「まさかあれで・・・えぇぇ・・・しょうがない・・・。」と腹をくくって、うつ伏せに寝る。

オバチャンはおもむろに短パンとサイクリングパンツを下ろす。
そして、両手でクイッとお尻を広げる。
その瞬間、お尻の割れ目に一陣の風がスーーーッと吹き抜けていった。

「ああぁぁぁ・・・・・・・・。」

おばちゃんは「ここはデリケートな場所だから、大切にしないと駄目。あと清潔にね。」と言う。

「いや、大切にはしていないけど、清潔にはしているつもりだけど・・・。」と思いつつ、「はい」と答える。
慣れた手付きで消毒をしてガーゼを貼ってくれた。
「これでOKよ」と言われ、恥ずかしながらも短パンとあげる。

お代は要らないと言う。
それはそれは、ありがとう。
嬉しいやら嬉しくないやら複雑な心境だ。

なんだか新たな境地を開拓した気分だ。

そして、ポリスは車をヒッチしてくれて、無事にサンタ・マリアへ到着したのだった。
ポリスのおじさん、診療所のおばちゃん、乗せてくれたドライバー、本当にありがとうございました。
かくして人生でモノ心付いて以来、初めて他人に「ケツの穴」を見せた衝撃的な日となったのだ。

それと、同時に遠くで何かが崩れていく音が・・・・。

【2005年11月 旅日記】


■トラブル??  


カファジャテを出発。
かなり満足した滞在だった。
食べまくり、飲みまくりだった。

日中の気温は暑いので、7時に出発。
朝方は涼しいので幾分OKだ。
さて、今日はどこまで行こうか。

順調に見えた走りも、なんだか変。
というのも、昨日からお尻がチクチクして痛い。
お尻と言ってもケツの穴が(食事中の方、すいません)。

サドルに跨っている時は、菊の御門様は直接当たらないので大丈夫だけど、ペダリングをすると多少刺激される。
その刺激が御門様まで達し、チクチクして痛みが走る。
はて・・・?どうしたのかな?

ちょっと違和感もあるし、暑いので、約60km走ってサンタ・マリア止りで終了。
宿に入り、シャワーを浴びる。
何故か、シャワーを浴びたら一層チクチクした。

とにかく腹が減ったので、食事をするために町中へ。
アルゼンチンは1時から6時までがシエスタ(昼休み)になっていまい、店が閉まってしまう。
町中はゴースト・タウンで、開いているのはネット屋とアイス屋ぐらい。

閉まりかけたパン屋で、強引にパンを買って、腹を満たす。
ネットをしている最中でもチクチクする。
部屋に戻って、手鏡を使って見てみる。

場所が場所だけに非常に見づらい。
しょうがないので、非常に恥ずかしい格好をして見てみる。
そして、なんとか、その「個所」が見えた。

そこに驚くべき事実が!
なんと「イボ」みたいのがあるではないか!!!
えっ??何これ??おい、初めてだぞ、こんなのは。

腫れたのか??
それともオケツの穴から出てきたのか??
それとも中に何か入ってるのでは・・・??

潰して何かエイリアンみたいのが出てきたらどうしよう・・・??
もう頭の中は混乱していた。
ついに「痔主」になってしまったの?土地は無いのに・・・なんて馬鹿な事はどうでもいい。

なんでだよ!!
2日前は無かったぞ!!
しかも「イボ」の頭が赤く、ここがどうやら痛みの場所らしい。

これが世に言う「イボ痔」なのか?
色々と考えたけど、まぁしばらくほっておけば治るだろう、と楽観的に考えた。
けど、一応大事を取って明日は休憩する事にして、明後日に出発しようと。

この楽観的考えが悲劇を招くのであった・・・。

【2005年11月 旅日記】


■チャリダーアキ  


カファジャテに到着してネット屋に行った。
チャリダー・アキからメールが着ていて、内容を見るためにクリック。
そして、内容には驚くべき事が書いてあった。

「メンドーサの北6キロの場所を走行中、3人の強盗に襲われ、頭を石で殴られ気絶した間に、自転車ごと全てを失った」と。

始めは「え?マジ??」と目を疑った。
すぐに彼のブログを見てみると、その事が書かれている。
なんとかブエノス・アイレスまでの行けるようになり、日本に帰国するという。

あまりのショックに声がでなかった。
メールを送ったら、返信してくれて、一応殴られた頭は大丈夫な様子。
しかし、走行中に襲われるとは・・・。

アルゼンチンとチリは、安全だろうと自分も正直思っていた。
この2つの国でモノを盗まれたという事は、聞いた事がなかったから。
アルゼンチン人にこの事を言うと、アルゼンチンは危ないよと皆、口を揃えて言う。

やはり、ここも南米の国なんだ。
旅で安全な場所など無いのだ。
ちょっと油断をしていた。

彼とは初めて会ったのは、ペルーのクスコ。
その後は、ボリビアの首都ラ・パス、そして偶然にもウユニ塩湖上でも再会。
そして、ウユニの街でも、一緒に飯を食べ、酒を飲んだ仲間。

それが強盗に襲われて全てを失い、日本へ帰国するという。
クスコでは「南米の後はアフリカだなぁ。」なんて話をしていたのが夢のようだ。
本当に残念でならない。

しかし、彼はこの掲示板にこう書いてくれた。
「俺はこのままじゃぁ終われねぇ!」と。
これを見て安心した。

そう、その意気だ。
また世界の何処かで出会う事が出来るだろう。
ブログは閉鎖せずにこのままでいて欲しい。

そして、今度はアフリカのブログになるように祈ってる。

【2005年11月 旅日記】


■夕飯  


カファジャテには4日間滞在した。

夕飯は牛肉のステーキで、量は500g。
ステーキにして食べるのもいいけれど、フライパンが小さいので500gを焼くのは大変だ。
そこで、小さく切って焼き肉にする事にした。

フライパンを熱して肉を置く。
しばらくして、焼けた肉から食べていく。
そして、再び焼く。

味は塩のみで、焼けた肉に塩を付けて食べるとかなり美味い。
醤油もあれば良かったけど、もう使い切ってしまったので、コチジャンを持っていた。
コチジャンを付けても美味い。

焼き肉のお供はビールと米1.5合。
ワインといきたかったけれど、やっぱりまだビールの方を選択してしまう。
ゴクゴクと喉に流し込む瞬間は至福の一時。

町に着いたら、このスタイルで食べよう。
アルゼンチン滞在中、一体何キロの肉を食べるのだろうか。
カウントしてみよう。

【2005年11月 旅日記】


■ワイナリー見学  


ガリュウくんとワイナリー見学に出発。
ワイナリーをスペイン語では「ボデガ」という。
カファジャテには、町中にボデガがあるので、気軽に足を運ぶ事ができる。

インフォメーション・センターで聞くと、有名なボデガは郊外にあるようだ。
確かに走っている時に、ボデガの看板が至る場所にあった。
趣味は悪いけど、家が宮殿みたいな形をしていて、なかなか儲かっているようだ。

1件目は「リオ・コロラダ(コロラダ川)」で、純白な服を着た女性が色々と説明してくれた。
さすがに、この種のスペイン語は分からないので、英語で説明してもらう。
がっ!英語も所詮できないので、聞いていても分かった様な振りをして肯く。

なんでも2種類のブドウがあるようだ。
元々ワインの知識など知らないので、基礎的な質問ばかりしていた。
アルコールが入っていれば、なんでも良いんだけど。

2件目は「ドミンゴ・エルマノス(日曜日の兄弟たち)」。
どうも日本語に訳すとかっこわるい。
ここではフランス人のおばちゃんたちと一緒に回る。

1件目のボデガとは違って、ここでは5Lワインも製造しているようだ。
だれが5Lも飲むんだよ・・・といった感じだ。
ここではおっさんが説明してくれた。

3件目はボデガ「ナニイ」。
これは日本語の意味は分からん。
結構、有名なワインの様で、白い洋服を着たスラリとした女性が説明してくれた。

この女性、英語がものすごく早くてさっぱり分からなかった。
まぁ自分たちの目的は説明よりもタダ酒だ。
典型的な嫌な観光客だ。

各ボデガでは、当然ながら試飲させてくれる。
昼間から飲む酒は美味い。
ガリュウくんは無類の酒好きなので、ワインにも精通している。

飲み方などを教わって試飲をするが、どうも味の違いが分からない。
昨日今日、飲みはじめた人間が味の違いなど分かるわけが無い。
ただでさえアルコールであれば、なんでもいいという人間なのに。

さすがに数杯飲むとホロ酔い気分で、とっても気持ちいい。
ただハッキリと分かった事はキンキンに冷えた白ワインが美味いという事。
そして、ボデガで働いている女性は、どうやら白い服が好きなようだという事だ。

おっさんの事はどうでもいい(笑)

【2005年11月 旅日記】


■緑  


ラ・ポマからカファジャテの手前までは、殺伐とした荒野が続いていた。
草木は無く、生えているのは灰色した膝丈ぐらいのブッシュだけ。
しかし、カファジャテの手前から緑が増え始めた。

時折、ハイウェイの脇には大木が植えており、緑のトンネルを走っているのは最高に気持ちがよかった。
久しぶりの緑だったので、すごく感動してしまった。
「緑は目にいい」という言葉があるように、見ていて落ち着くし、心が安らぐ。

まして、この周辺はアルゼンチンの中でも有名なワインの産地。
そのため、道路脇には延々とブドウ畑が続いている。
まだ収穫期ではないようで、ブドウ事体が見えなかった。

ワインの産地であればワイナリーがあるはず。
ワインに全く興味を示さなかったのに、生意気にもワイナリー巡りに行く事に。
勿論、目当ては試飲のタダ酒だ。

【2005年11月 旅日記】


■牛肉  


ラ・ポマで、久しぶりにレストランに行った。

注文したのは牛肉とフライドポテト。
牛肉はメキシコ以来、美味しいと思った事が無い。
どの国も値段が高いくせに不味いし、肉自体が固く、必ず歯の間に挟まってしまう。

アルゼンチンは牛肉が美味いという事で有名だ。
出てきた肉の見た目は、他の国と変わらない。
ナイフを入れてみると、かなり柔らかい!

そして、口に中へ。
ジューシーな肉汁が口の中に広がる。
うーーん、いいでないの、なかなか美味い。

日本の霜降りには、遠く及ばないけど美味い。
というより、久々の牛肉だったので、すぐに平らげてしまった。
やっぱり、パワーを引き出すには肉が必要だ。

標高は3,000mだけど、なんだか暑い。
もっと涼しいと思ったのに。
ラ・ポマを出発して、カチ、モリノス、アンガスタコを経由して、やっと、カファジャテに到着。

徐々に標高も下がっていき、ここカファジャテは標高1,900m。
日中は30度以上になるので、半袖、短パンに着替えて走る。
中米以来の軽装だ。

ここでガリュウくんと再会。
彼はアントニオの後、サルタ、そして、カファジャテ渓谷を堪能してようだ。
1日早くカファジャテに到着したとの事。

その夜は、再会を祝して乾杯。
2人で米500g、肉1.5kg、ワイン、シャンパン、ビール各1本を平らげた。
これでアンデス越え第4ラウンド終了。

その夜、デジカメをいじくっていたら、なんと、写真が撮れるようになった。
何が起きたんだ?
まぁいずれにせよ、新しいのを買う事はなくなったのでよかった。

【2005年11月 旅日記】


■オススメの歌 その3  


長渕剛の「STAY DREAM」。

聞いているとオイラも頑張らなきゃなぁって感じる。
アメリカ合衆国を走っている時によく歌っていた。
くよくよするなよ!

■STAY DREAM
死んじまいたいほどの苦しみ悲しみ そんなもののひとつやふたつ
誰もがここあそこにほらしょい込んでるもの 腰をおろしふさぎ込んでも答えはNothing

ぶっ飛ばしたいほどの怒りや悔しさ そんなもののひとつやふたつ
殴られた痛みはTRYへのワンステップ 尽きせぬ自由はがんじがらめの不自由さの中にある 

くよくよするなよ あきらめないでJust like a boy
その痩せこけた頬のままで 果てしない迷路の中を人はみんな手探りしてでも Stay Stay Dream
そう、Stay Stay Dream、Stay Stay Dream

ひねくれかけた瞳のずっとずっと 奥にもがいてるもうひとりの俺がいる
一番怖いものは勇気だと知った時 自分の弱さに思わず鼻をつまんだ

もうこれ以上先へは進めない たとえば挫折が目の前に立ちはだかる
そんな夜は心で命の音を聞け たかがこんな自分はと 一度だけからかってみなよ

くよくよするなよ あきらめないでJust like a boy
その痩せこけた頬のままで 果てしない迷路の中を人はみんな手探りしてでもStay Stay Dream
そう、Stay Stay Dream、Stay Stay Dream

【2005年11月 旅日記】


■故障!?  
サン・アントニオでは、しこたま酒浸りだった。
初日はビール1L、2日目にはワイン1L、3日目には再びビール1L。
まぁ酒浸りってのは大袈裟かな。

これだけ栄養を付けたのだから、アンデス越えもいけるだろう。
そう確信してサン・アントニオを出発。
いよいよアカイ峠への挑戦が始まった。

まずは13km先の「ルタ40」との分岐を目指す。
今まで走ってきたのは「ルタ51」。
多少、砂が多い部分もあるけれど、1時間で到着。

「右折はアカイ峠」のサインあり。
さて、写真でも撮るかと思い、デジカメを出した。
そしたらなんと動かない。

あれ??昨日は動いていたぞ。
よく見てみると、撮った写真は見れるけど、写真が撮れない。
おいおい・・・どうするよ?

このままサルタに下ってしまう??
そこで修理するか??
しかし、アカイ峠も越えたいし・・・。

まぁ一眼レフがあるのでそっちで撮るか。
残念だけど、アカイ峠のサインの写真が撮れない。
つーか、撮れた写真は見れるけど、写真が撮れないなんて事はあるのか?

そして、一路アカイ峠を目指す。
以前も書いたけど、アカイ峠は国道としてはアメリカ大陸最高地点の標高4,895m。
この分岐が標高3,900mだから、わずか1,000mのアップだ。

まぁ未舗装路だからちょっとしんどいけど、なんとかなるだろう。
水の補給は100km先のラ・ポマという村まで出来ないから、合計で11Lを運ぶ事に。
そんなに必要は無いだろうけど念のため。

分岐を右折して、パンパをひたすら行く。
標高はわずか4,000mになっただけ。
目の前には山が聳えていて、「ネバド・アカイ」と地図には書かれている。

「ネバド」とはスペイン語で「雪山」という意味。
どんな雪山があるんだろうと楽しみしていたけど、そこにあるのはただの黒い山。
もう雪が解けてしまって、「ネバド」ではないようだ。

途中から道はかなりガレガレになり、拳大の石がゴロゴロしてる。
途中で休んでいたら1台の車が過ぎていった。
こんな道、走る奴いるんだ・・・と更に感心するも、向こうも同じような事を思っているのだろう。

谷間に入り、そこから傾斜が一気に急に。
これはしんどい!かなり急坂だ。
それと同時に何故か路面状況が良くなり、押す事も無く、エッチラオッチラと標高を稼ぐ。

道は山肌に沿って、天に伸びている。
空は残念ながらちょっと雲が多め。
途中、分岐点が現れ、先を見ると、どっちに行っても合流するようだ。

右は九十九折れで距離はあるけど、傾斜は緩やか。
左はまさに直登で距離は短い。究極の選択だ。
「どうせだったら距離が短いほうに。」という甘い考えで左に。

これが大失敗!
わずか200mぐらいの距離なのに、15分もかかってしまった。
当然、乗る事は無理で、押すというより引っ張り上げる感じで、5歩進んで休むの繰り返し。

右に行っておけばよかった・・・と大後悔。
お陰で、息がゼェゼェ。
合流地点は標高4,400mで、わずか標高差50mを上げるだけですごく疲れた。

幸いこの先は緩い上り坂だけど、片側は谷間まで切れ落ちている。
しかも、一車線のブラインド・コーナーばかり。
対向車が来たら危険だ。

4,500m、4,600mとどんどん標高を上げていく。
周囲を見ると、山肌に道が造られているので平らな部分が無い。
平らな場所が無いとテントは張れないぞ・・・と思いながらペダリング。

標高4,700mの所で急カーブがあった。
この内側に平らな部分があって、テントは張れそうだ。
外側にはチョロチョロながら、小川もある。

まだ体力はあったけれど、どうみてもこの先にテントを張れる場所はなさそうなので、今日はここまで。
峠越えは明日に取っておこうと決め、今日の走りを終えた。
なんとかデジカメ、直らないかなぁ。

【2005年11月 旅日記】


■御守り その2  


右腕にしている3つのミサンガ。
正確には、ミサンガなのかどうかは知らないけれど、全て南米に来て現地の人がプレゼントしてくれたモノ。
折角くれたのだから、外れない様、腕にしている。

まずは左のミサンガは、コロンビアのアンセルマという街にて。

腹が減ったのでパン屋に入ってパンを食べていたら、そこで働く同い年の女性がくれたモノ。
同い年という事もあって話が合い、アンセルマの思い出にとくれた。
コロンビアのサッカーのクラブチーム「メデジン」のミサンガ。

中央はコロンビアのエル・ボルドという街にて。

とある宿に入った所、隣の靴屋の親父さんが声を掛けてきてくれた。
いつもの様に話が弾み、今日から4日間フェリア(お祭り)があるから、もっと滞在していけとの事。
その夜、宿の若者と3人でお祭りに行き、そこで親父さんが買ってくれたコロンビアンカラー。

そして右のミサンガは、ボリビアのオキナワ移住地で働いている時の事。
そこで知り合った女子高生から貰ったモノ。
ボリビアンカラーの緑、赤、黄色の3色。

どれもかけがえの無い思い出の品です。

【2005年11月 旅日記】


■デビュー!  


サン・アントニオには3日間滞在。
2日の夜にはワインに挑戦した。
アルゼンチンはチリと並んでワインが有名なので、かなり安くて美味しいワインが飲める。

と、書いても実はワインは嫌い。
日本でも全く飲まず、殆どがビールや日本酒などだった。
ワインは全く飲まず、飲めても「赤」をほんのちょっとくらいだった。

そんな時、ボリビアで友達がキンキンに冷えた白ワインを飲んでいた。
試しにちょっと貰って飲んでみた。
「あれ・・・美味いじゃないの」と、いう事でワインが飲めるようになったのだ。

その日の夕飯もチキン・スープ。
「ちょっと贅沢にチーズとサラミ、ワインで食前酒を楽しもうかな。」
なんて生意気な考えが。

チーズとサラミを各100g、箱ワイン1L。
これで総額200円。
安い!のかな?

チキン・スープを煮込んでいる間に、ワインを一口。
既 に標高3,700mなので、冷蔵庫に入れる必要は無い。
キンキンとまではいかないまでも十分冷たい。

口の中から食道を通って胃に染み渡る。
美味い・・・。
どうやら飲まず嫌いだったようだ。

空腹で飲み始めたので、かなり回っている。
チキン・スープが出来る頃には、かなり出来上がってしまった。
そして、ホロ酔いでチキン・スープを食べるが、これまた美味い・・・。

またハードな旅が始まるんだ。
このくらい贅沢はしてもバチは当たらないだろう。
つーか、200円の酒宴がどこが贅沢なんだ??

いつの間にか食べ終わって、いつの間にか気づいたら寝ていた。

【2005年11月 旅日記】


■休憩  


標高3,700mのサン・アントニオに到着し、アンデス越えも無事に完了。

この後のルートは、2つある。
当初の予定は幹線道路としては、アメリカ大陸最高地点の標高4,895mのアカイ峠を越えてカファジャテに入るルート。
もう1つは標高1,200mのサルタへダウンヒルをして、カファジャテ渓谷を楽しみながらカファジャテに入るルート。

「もうアンデスはお腹一杯」と、シコ峠を走っている時、そう考えていた。
「もう未舗装路いいや」って。
しかし、こうしてサン・アントニオで休んでいると、沸々と悪い癖が出てきてしまった。

「アカイ峠ルートで行くか」と。
それに「幹線道路としてはアメリカ大陸最高地点」という冠にも惹かれる。
折角、アンデスに来たんだ、とことんアンデスに浸ってみよう。

どうしてサイクリストはこういう「先っちょ」が大好きなんだ??
「●●峠」とか「●●大陸最南端」とか「●●大陸最北端」とか。
これって、自分だけなのか?

オーストラリア本土最北端にも行ったし、ニュージーランド最北端にも行った。
日本では峠越えが好きで、月に1回は輪行して峠越えをしていた。
自転車で行けるのであれば、とりあえず目指してみるかと考えてしまう。

掘立小屋のインフォメーション・センターに行って、情報を聞いてみると自転車でも走れると言うこと。
特に道路封鎖はされていないらしい。

ほほう、だったらこっちのルートに決定。
ここのルートは、アルゼンチンでも有名な「ルタ40(ルタ・クワレンタ)」の1つ。
「越えておいて、損は無いだろう」という事で再びアンデス越えとなったのだ。

そのためには、ここで栄養を付ける為に、夕飯はチキン・スープに決定。
タマネギ、ジャガイモ、ニンジンを炒めた後に煮込み、煮立ったら鳥肉を入れて再度コトコト煮込む。
味はコンソメ。鶏肉のダシも出ていてかなり美味い。

アタカマ以来の肉だ。
やっぱり肉ですよ、肉!
肉を食べてパワーを付けないと!!

【2005年11月 旅日記】


■第3ラウンドクリア!  


昨日30ドルを両替した。
1ドル=3ペソなんだから90ペソを貰う所、20ペソしか貰っていない。
どうやら1ドル=1ペソの計算をしていたようだ。

宿のおばちゃんも計算が苦手だったようで、両替の時に幾ら渡せばいいの?と聞かれた。
「あと20ペソだね」と答えてしまったのだ。
つくづく単純計算には弱い。

で、朝一でおばちゃんに尋ねたら、すんなり60ペソくれた。
よかった、よかった。
これでごねられたらまた問題だった。

オラカパトを7時に出発。
どうもアルゼンチン側の道路状況は良くなく、砂やコルゲが目立つ。
まぁ、自転車を押す事は無いので、楽なんだけど。

途中、川が流れていた。
川の周りには、氷が張っている。
昨日も氷点下まで下がったようだ。

この川を過ぎてから路面状況は良くなり、グングン標高を稼ぐ。
一度4,400mまで上がった。
このまま一気に4,560mまで行くと思ったら、うざったいアップダウンが少し続いた。

しかも、ガレ始めた。
つくづく簡単には終わらせてくれないようで、風も出てきた。
今日は吹く時間がちょっと早い。

そして、ついに標高4560mの峠に到着。
きちんとサインもある。
こういうサインがあると嬉しい。

今まで「ここが峠ですよ!」というサインは殆どの国が無かった。
日本では「●●峠、標高●●m」というのがある。
やっぱりサインが有ると無いとでは全然違う。

そして、下りを楽しもうと思ったけど、これがすごいガレガレ。
スピードを出す事ができない。
ホイールの破損が恐いので、ゆっくりと下る。

そして、峠から走る事3時間。
サン・アントニオ・デ・ロス・コブレスという村に到着。
人口3,000人で、レストランもあるし、店もあり、パン屋だって肉屋だってあって、まさに大都会。

そういえば、最近はビル群というモノを見てないなぁ。
まぁ都市は好きじゃないのでいいんだけど。
これでラ・パスからハードな旅の第3ラウンド終了だ。

第1ラウンドは、ラパス−サハマ−コイパサ−ウユニ塩湖のルート。
第2ラウンドは、ウユニ−エドゥアルド・アバロア自然保護区のルート。
第3ラウンドは、ここのアタカマ−サン・アントニオのルート。

さてサンチャゴまで何ラウンドあるんだ??

【2005年11月 旅日記】


■時代の流れ  


イミグレーションの係官が言うように左折して、一路カトゥアを目指す。

どうも砂やコルゲが多いような気がする。
新道の方は、トレーラーが通っているからコルゲがひどいのかもしれない。
まぁいずれにせよ、どっちも楽ではない事は確か。

イミグレが標高3,800mで道は緩く上っている。
カトゥアに行くには、メインハイウェイを左折して1kmほど走らないといけない。
特に物資的に困っているという事は無いのでスルー。

その後は緩い上がりが続いて、結局4,330mまで上がり、そしてダウンヒル。
さすがはアンデス、上っては下るの繰り返しだ。
本当に懐が深い。

下っていくと、サラール・デ・カウチャリに到着。
しかし、ウユニ塩湖の美しさにはほど遠い。
シコ峠の北にあるハマ峠からの来る道に合流。

その後は、再び西風が強くなってきた。
基本的に東に向かっているので、追い風になってくれる。
追い風だと、多少砂があってもガンガン進む。

そして、カウチャリの村に到着するも、廃屋が数件。
事前に情報を持っていないで、ここに来たら大変だ。
しかし、標識によると10km先にオラカパトという村もあるようだ。

ここで右からの新道に合流し、ラグナ・タジャイトの近くで見た送電線もここで合流。
チリのアタカマからアルゼンチンのサルタまで電気が繋がっているのだろうか?
と、なると近い将来、ここの道も全線舗装となるのだろう。

舗装路は楽で、未舗装路は大変だし、汚れるし、キャリアも振動で壊れる。
だけど、やっぱり未舗装路を走っていると、その国と一体になった感じがして楽しいも事実。
全線舗装化されるもの、時代の流れなのだろう。

ここでガリュウ号の轍を見つけた。
彼はどうやら右の新道を行った様だ。 未舗装路だからこそ、こういう楽しみもあるわけだ。

標識を見るとシコ峠まではどちらも同じ距離。
補給の事を考えると、カトゥア経由の方が良さそうだ。
そして、オラカパトの村に到着。

オラカパトの村には宿があった。
うーん、ちょっと考えて、投宿してしまった。
値段は10ペソ(約350円)だけど、アルゼンチン・ペソを持っていなかった。

ドル・キャッシュがあるので、それを使えるか尋ねると両替してくれるとの事。
レートは1ドル=3ペソ。えっ!?確か今はもっとペソが高いと思っていたけど。
村人に聞いても、大体このレートのようだ。

以前は1ドル=1ペソだったらしい。
しかし、アルゼンチン経済が崩壊してからは、1ドル=2ペソぐらいになったと。
友人曰くは1ドル=2.5ペソぐらいと言っていたのに、まぁラッキーだ。

明日はこのルートの最高地点で標高4,560mの峠を越える。
さてどんな上りになるのだろうか。
楽しみだ。

【2005年11月 旅日記】


■やっと18カ国目・・・。  


シコ峠を越えて、無事に18カ国目のアルゼンチンに入国。

イミグレーションの係官が昨日、日本人サイクリストが来たという。
恐らくガリュウくんだろう。
聞くと、彼が通過したのは夕方の17時ぐらいらしい。

ここからサン・アントニオへ行くには2つのルートがあるようだ。
ここのイミグレーションから真っ直ぐに伸びている道と、左へ行く道。
自分の持っている地図には、真っ直ぐに伸びる道が記載されている。

係官に尋ねると、真っ直ぐの道は「新道」のようだ。
左へ行くと、カトゥア経由でサン・アントニオへ行く道。
係官曰く、左へ行った方が、道の状態はいいという事。

標識にはカウチャリは約50kmと書いてあるが、このカウチャリと村は、廃村らしい。
自分は、左に曲がって一路、カウチャリを目指す。
まぁ廃村だけど、その周辺にテントを張ってもいいだろう。

【2005年11月 旅日記】


■オススメの歌 その2  


この歌は日本にいる時から既に聞いたいた。

サザンオールスターズの「旅姿六人衆」。

歌詞がまさに、旅にうってつけ。
これを聞きながら、真っ直ぐに延びる道を走ったら、気持ちがいいんだろうなぁ・・・。
今更ながらに桑田圭祐氏の歌詞に感服。

■旅姿六人衆
毎日違う顔に出逢う 街から街へと 
かみしめてる間もないほどに Oh! No! Oh! No!

喜びや夢ばかりじゃない つらい思いさえ 
ひとりきりじゃ出来ぬことさ ここにいるのも

お前が目の前にいるならいい ステキな今宵を分け合えりゃ
また逢えるまでは この時を忘れないでいて

華やかな者の影で今動く男達 
Mr.Suizuらがいてくれたら今日も大丈夫  Oh Baby!

お前が目の前にいるならいい ステキな今宵を分け合えりゃ
また逢えるまでは この時を忘れないでいてLalala...

【2005年11月 旅日記】


■更に・・・。  


ボリビア南部の国立自然保護区を走っていた時、ヨーコさんから援助物資などを頂いた。

そして、他にもなんと!「御守り」まで。
うーん、もういたれり尽くせりです。
しかも、きちんと「交通安全」の御守り。

これは、きちんと貴重品の袋に入れて大事に保管しなければ。
本当に何から何までありがとうございました!
また何処かで再会しましょう!!

【2005年11月 旅日記】


■シコ峠  


ソカイレから約130km、チリとアルゼンチン国境のシコ峠に到着。
ここの標高は4,079m。
これでチリとは、一時的にサヨナラし、18カ国目のアルゼンチンへ。

ここの峠は、以外に多くのサイクリストが走っている。
有名な人では、タンデムの宇都宮夫妻、ミキハウスの坂本達氏などなど。
これで一端のサイクリストの仲間入りかな?

峠と聞くと、日本のようにえっちらおっちらと坂を上って峠に到着し、その後は嬉しいダウンヒル。
これが日本のような峠越えの定番だ。
しかし、アンデスは違う。

とにかく懐が深いので、峠を越えても、まだまだアップダウンは続く。
ここもシコ峠の手前では、一度4,440mに上がって4,100mまで下る。
そして、再び4,330mまで上がり、そのまま下って、シコ峠に到着する。

「ようこそ、アルゼンチン!」の看板が嬉しい。
国境と言っても、そこには何も無い。
パンパが延々と広がっているだけで、ちょっと寂しい。

チリのイミグレは、アタカマで出国手続きをする。
アルゼンチンのイミグレはここから12km先にある。
これで、一応、シコ峠クリアと言った感じか。

その日はそのサインの横で、テントを張って眠りについた。

【2005年11月 旅日記】


■湖  


この辺りは火山地帯のため、山は富士山に似た形の山が多い。
そして、多くの塩湖が存在し、殆どの湖が光の屈折によって様々な色を発色する。
ボリビアの宝石の道に代表される塩湖群がそれだ。

この近くにあった湖もそうだった。
名前は「ラグナ・タジャイト」。
標高4,000mに位置する塩湖だ。

この湖の手前にあった塩湖は、「サラール・アグアス・カリンエス」。
ここの塩湖は薄い緑色をしていた。
意外に緑色の湖は多いようだ。

このラグナ・タジャイトは、南から見るとその色は「水色」に見える。
「湖なんだから当然水色でしょ?」と思う人もいるかもしれない。しかし、違う色だ。
なんだか絵の具で塗りつぶした様な水色をしている。

その背後には名前はわからないが、雪を少し被った山が聳え、絵になる景色だ。
大変なルートにこそ、美しい景色が存在する。
この定説は何処に行っても崩れる事は無いのだろう。

【2005年11月 旅日記】


■アンデスに抱かれて  


標高を上げて4,000mを越えたので、もう高山病の心配は無い。
アタカマで一度標高を3,000mに切ってしまったから、また戻ってきたぜって感じだ。
クスコ以来、ずーっと標高は3,500m以上に居る。

標高4,000m以上は、流石に自然環境は厳しいけれど、空は透き通るように青く、恐怖すら感じる。
空気も澄んでいて、ピーンと張り詰めている。
この緊張感が心地良い。

そして、白い雪を抱く山々。
山好きにはたまらない場所だ。
青、白、そして、大地の茶、この3色が綺麗なコントラストを醸し出している。

エベレストの頂上に立った人は「そこは、まさに神が存在する領域だった」と言う。
しかし、ここでも、そう感じる。
本当に神々しい。アンデスは最高だ。

またアンデスの旅が続くと思うと、嬉しくなる。

【2005年11月 旅日記】


■暖かい手  


ソカイレを出発して、標高を上げる。
標高3,800mぐらいになった所で、道が緩いアップダウンになった。
パンパ(平原)に入ったのだろう。

今までの路面状況は良く、十分に走れたが、この辺りからちょっと砂が多くなってきた。
だいぶ疲れてきたので、休むことに。
そんな休んでいた時だった。

1台の車が後ろからやってきた。
自分の目の前で止まって、「大丈夫?」と聞いてくる。
問題は全く無かったので、「大丈夫だよ、ありがとう。」と答えると、中から人が降りてきた。

スペイン人夫婦のホセとビセント。
そして、ツアー会社のチリ人の2人だった。
ツアーでこの辺り周辺の塩湖や湖を散策するとの事。

スペイン人なのでスペイン語で話すから楽だ。

自転車で旅している事を話すと、驚いて写真を撮られる。
写真を撮っていいか、きちんと尋ねてくれるのが嬉しい。
欧米人の中には、勝手に写真を撮って、そのまま行ってしまうのがいるので、これはいささか良くない。

色々と話していて、最後に1.5Lの水とナッツやレーズンが入った容器をくれた。
「えぇっ!?いいの??せっかく持ってきたのに・・・」と恐縮する。
「いいよ、いいよ、気にするな。水は大事だ」と言ってくれる。

水は10Lは持っていたが、あるに越したことは無い。
さすがに断るのは悪いのでありがたく頂く。
「また戻ってくるから、また会おう」と言って、走っていった。

そして、しばらく走って休憩。
早速頂いた容器を開けてみる。
中には、ナッツ、アーモンド、レーズン、クルミなどが入っており、運動にはもってこいの行動食だ。

正直言うとレーズンは嫌いなので、日本でも食べたことは無かった。
あのグニュとした歯応えが好きではなかったけれど、これは捨てる訳に行かない。
そんな事をしたバチがあたるわっ!!

ちょっと食べてみると美味い!
すごく甘く、かなりの糖分だ。
ナッツやアーモンドと食べると更に美味い。

これはこれは・・・知らなかった。
これはハマる。
行動食としてレパートリーに決定。

そして、それから3時間ぐらい走って、夕方になりかけてきた時、彼らの車がやってきた。
再び車が止まり、写真を撮られる。
また皆、降りてきて、色々と聞かれた。

何処でスペイン語を覚えた?
何処を走ってきた?旅はどのくらいだ?
いつ日本に帰るんだ?などなど・・・。

そして、今度はコカコーラ2缶、ワインを1本をくれるではないか!
ワインは瓶に入っているので、さすがに重い。
そこら辺に捨てるのは嫌なので、コーラだけ頂くことにした。

そして、「ブエン・ビアヘ!(良い旅を!)」と言って、去って行った。
本当にありがたい。
感謝しても足りないくらいだ。

以前にも書いたが、自分1人で旅ができるなんて不可能だ。
日本にいる自分の周囲の人、旅先の地元の人、旅で出会う人。
そう言う人達、1人1人のお陰で今の自分がいるんだ、今の旅が成り立っているんだと実感する。

「自分は何かお返しはできないのだろうか?」と、オーストラリアにいる時に考えた事だ。
いつも何かをしてもらってばかりだったから。
結局、何も考え付くことはできなかった。

その代わり、この旅を最後まで無事に走り抜ける事を誓った。
道中、旅の安全を連絡しつつ、日本まで帰る事が自分の使命だと感じた。
それが、出会った彼らにできる自分なりの「お返し」だ。

【2005年11月 旅日記】


■好きな歌  


オーストラリアでは、CDプレーヤーは持っていなかった。

しかし、ゴールしたシドニーで、友達がCDプレーヤーを売ってくれると言う。
値段はAU$10(約800円)だったので、これは買いだと思って、売ってもらった。
音楽CDは、その友達からコピーさせてもらったモノを聞くようにした。

そして、ニュージーランドの旅を終えて、再び友達から違う音楽CDをコピーさせて貰った。
その中に自分にぴったりの曲があった。
それは、Mr.Childrenの「終わり無き旅」。

旅の舞台はニュージーランドからアラスカへ。
アラスカでは荷物を盗まれたり、タイヤが破裂したりとトラブルが続いた。
精神的にかなり参っていた時、この音楽を聴いて乗り越えてきた。

この曲を聴く度に、アラスカでの出来事を思い出す。
「あの苦難を乗り越えてきたんだ、また乗り越えられるさ。」と。
音楽を聴きながら旅をすると、この曲を聴く度に「あぁ、この曲はあの国でああだったなぁ」と感じる事が出来る。

コピーさせてくれた友人に感謝です。

【2005年11月 旅日記】


■サイン  


ソカイレの村に1日で到着。
久々の舗装路なので、ちょっと無理をしすぎたかな?
若干、膝が軋む。

ソカイレからは未舗装路が始まる。
普通のトレーラーも走っているので、ボリビア南部ほど悪路ではないだろう。
しかし、トレーラーが走るとコルゲーションがひどくなる傾向がある。

サインは、ボリビアと違ってきちんと表示されている。
嬉しい限りだ。
しかし、道路脇にある石に、距離がペンキで描かれている。

ボリビアでも、意外にこのサインに助けられた。
「迷っているかなぁ」と思っている時に、これが現れると「一応合っているんだと」と思う事が出来た。
日本では考えられない事だけど。

写真の数字は、カラマからの距離。
これがアルゼンチン国境まで続くのだろう。
しばし、このサインと一緒に走る事になるけど、よろしくね。

実際は本当の距離と合っているかは不明だけど・・・。

【2005年11月 旅日記】


■シコ峠越え  


登山もしないと決定したし、あとは自転車に専念するのみ。

次なる目標はシコ峠越え。
峠の標高が4,079mとやや低め。
もう既に4,800mを越えてきたから、多少の数字では驚かない。

このままカラマ経由でチリの海岸線に出てもいいんだけど、海岸砂漠の気候や風景はもうお腹一杯。
ペルーで嫌と言うほど見てきたから。
しかも標高差1,000mぐらいのアップダウンがうんざりするほど続くと言う。

だったら、アンデスに入り込み、シコ峠を越えて、アルゼンチンに抜けた方が楽しそうだ。
一路、アタカマからアルゼンチンのサルタという都市を目指す。
距離は約550kmぐらいで、うち400kmが未舗装路。

サルタへ目指すルートは2つ存在する。
1つはこのシコ峠越えで、もう1つはハマ峠越え。
ハマ峠はボリビアから来た道を再び戻り、標高4,600mまで上がる必要があるが、全線舗装路。

同じ道を走りたくないから、シコ峠に決定。
自転車で何が一番嫌だって、同じ道をまた戻るのが一番嫌だ。
それがわずか5kmにしても。

まずは、一路標高3,200mのソカイレを目指す。
アタカマから約90kmで、ここまでは舗装路だ。
以前はまだ未舗装路だったらしい。

ガリュウくんも同じルートで自分より2日先に出発。
標高がまだ2,800mぐらいなので、残念ながら空が青くない。
遥か彼方にアタカマ塩湖が広がる。

【2005年11月 旅日記】


■接客態度  


アタカマの村からリカンカブールが綺麗に見えるので、またフツフツと山に登りたい病が発病してきたようだ。

リカンカブールは標高5,916mだけど、現在は雪が無いので、特別な装備は要らないだろう。
富士山と同じ休火山で、形も富士山と同じ円錐形、登山道も恐らく砂礫だろう。
値段を聞くぐらい良いだろうと思って、旅行会社を回ってみる。

他にも、標高6,000m弱のサイレカブールという山があるようだ。
しかも、写真などを見た限り、ただの瓦礫地帯の歩行だけで、時間にして往復5時間。
そして、サイレカブールの値段はなんと驚きの160ドル!!

はぁ〜っ?て感じ。
雪も無いただの1日トレッキングなのに、なんでそんな高いの?
ボリビア、ペルーだったら、かなりレベルの高い雪山に行けてしまう。

リカンカブールに至っては、驚きの220ドル!!
おいおい・・・何か勘違いしてないか?
しかもこの値段、最低2人から。

自分はガイドと一緒に行きたいと言ったら「じゃあ2倍払って。」と。
再びはぁ〜っ?て感じ。
ちょっとカチンときたので、「じゃあ払うからサービスもその分2倍にしてよ」と言ったらあきれてやがる。

ボリビアやペルーは、1人でもOKだった。
1人だからといって倍を払う事は無かった。
いくらチリの方が物価高いからっていってもさぁ・・・。

もうこの旅行会社は駄目だと思い、他をあたってみるけど、全て同じ。
最低2人からのようだ。
このシステムは理解出来ないなぁ・・・・。

じゃあガイドは、現地調達する。
ボリビアまでの車を用意してほしいと、とある旅行会社に尋ねた。
またそこの女性がムカ付く事。

英語よりスペイン語の方が良いので、「スペイン語でお願い」と言うと超早口で喋り始めた。
「ちょ、ちょっと待った。もっとゆっくり」と言うと、「私はゆっくりよ」と逆切れされた。
そして、更にマシンガンのように話し続ける。

もう聞く耳持たないで、話終わったら、「いいよ、またね」とサヨナラ。
とある旅行会社は、2泊3日でリカンカブールはガイドと一緒で160ドル。
しかも食事、装備は含まれず、交通(車)とガイド料のみでこの値段。

もう1人で行くかと思い、更に尋ねるとリカンカブールはガイド無しでは登れないよう。
1年前に1人で登っている人を知っている。
単独禁止と言うのは本当なのか??

とにかく不快指数が高く、対応が悪すぎる。
逆に「もう別にいいや」と諦められて、自転車の走りに専念しようと思う事ができた。
リカンカブールの容姿は自分好みだったけど、サヨナラだ。

【2005年11月 旅日記】


■再会  


サンペドロ・デ・アタカマはチリ北部の有名な観光地。
観光地といっても小さな村。
しかも、僻地にあるために物価が恐ろしく高い。

宿は安くても、最低8ドル。キャンプ場もあるけれど、7ドルもする。
USAやカナダと比較すると安いけど、南米では高い部類に入る。
なんとか、8ドルの宿にチェックイン。

やっと越えたボリビア南部の悪路なので、ゆっくりと休みたかった。
そして、街中を散策。
道路は全て未舗装路で、建物はアドベ(日干しレンガ)だ。

チリの通貨ペソをゲットしないと、何もできない。
ATMがあるので行ってみるけれど、何故か使えない。
USドルは持っているけれど、なるべく使いたくない。

ボリビアーノを持っているので、これを交換しようと思い、両替商へ。
そしたら、ボリビアーノはたくさん持っているから交換はしないと。
なんだと??両替商の意味無いだろ!!

もう1つATMがあると言うので、行ってみるが使えない。
何でだよ・・・と途方に暮れる。
とあるお店に入って「ボリビアーノを両替できるか」と尋ねると、しぶしぶ両替してくれた。

なんとも感じ悪く、しかも、レートは悪い。
しかし、もうどうでもよかった。
とにかく腹が減ったので、早く何か食べさせろ!

取りあえず、これでチリペソをゲット。
ジュースとパンで一息着いた。
ってジュースとパンで既に2ドル・・・思わずビックリ!!その物価の高さに。

驚きながらパンをパクついている時に、再びガリュウくんと再会。
ボリビアの各地を走っている時、自分の前に日本人サイクリストが走っている事は知っていた。
彼は1日早く到着したようだ。

レストランに入って祝杯を挙げたいところだが、目が飛び出るような値段なので、自炊する事に。
2人でご飯500g、主食は肉野菜炒め。
肉は500g、野菜もてんこ盛りだ。

早速ビールで乾杯。
標高2,400mと低地?なので大分暑い。
だから、暑いとビールが美味い。

これが旅の至福の時。
苦労して、色々な壁を乗り越えて、街に着いたら酒を飲む。
お互いのボリビア南部での苦労話で花を咲かせる。

ここでゆっくり休んで、また走り始める。

【2005年11月 旅日記】


■スーパー・ダウンヒル  


無事にボリビアを出国し、チリに入国。
入国といっても、サンペドロ・デ・アタカマにイミグレがあるので、そこで手続きをしなければならない。
ボリビアのイミグレから12kmの未舗装路を走って、久しぶりに舗装路になり、標高4,400mのカホン峠に到着。

以前にも書いたけど、アタカマが標高2,400mで、カホン峠からは標高差2,000m。
これを40kmかけて下るので、かなり傾斜のある下り坂だ。
逆に言えば上る時は、かなりしんどいって事を意味する。

久しぶりの舗装路にウキウキしながらダウンヒル開始。
下り始めて、その傾斜に驚き。
トラックなどは恐らく10km/hぐらいで走っているだろう。

スピードを出しすぎたら、確実にブレーキは効かない。
地図を見ても等高線に直角に道が伸びている。
もう少し考えて作ればいいものを・・・。

しかし、峠から少し走った所からの眺めは絶景。
延々とアタカマ塩湖が広がっていて、背後にはアンデスの山並みが連なる。
左後にはリカンカブールとフリケスが聳えている。

うーむ、できればリカンカブールには登ってみたい。
当初は登る予定はなかったけれど、再び悪い虫が出てきたようだ。
久しぶりの舗装路を満喫して、無事にアタカマに到着した。

【2005年11月 旅日記】


■歌その2  


ニュージーランドから北米に飛んで、アラスカ、カナダ、合衆国本土を走っていた。

手付かずの自然、縦横無尽に闊歩する野生動物。
そこには、空の「青」と針葉樹林帯の「緑」のみの世界だった。
本当に走っていて楽しかった。

その時に、口ずさんでいた歌は「翼をください」。

あまり考えた事は無いけど、ただ走りながら空を見上げていると、自然とこの歌を口ずさんでいた。
それから「上を向いて歩こう」を歌わなくなった。
いや、たまに歌うか・・・。

■翼をください
♪いま私の願いごとが叶うならば翼がほしい

♪この背中に鳥のように白い翼つけてください

♪この大空に翼をひろげ飛んで行きたいよ

♪悲しみのない自由な空へ翼はためかせ行きたい

【2005年11月 旅日記】


■歌  


オーストラリアを走っている時によく口ずさむ歌は「上を向いて歩こう」だった。
何故か分からずこの歌を歌っていた。
特に大好きという訳でもなかったのに。

とある宿で友達にこの事を話すと、「走っているの辛いの?」と言われてしまった。
いや、辛くは無いんだけど・・・。
ただ何となく、空を見上げては、この歌を歌っていた。

真っ直ぐなオーストラリアの道をひたすら走りながら・・・。

■上を向いて歩こう
♪上を向いて歩こう 涙がこぼれないように 思い出す春の日 一人ぽっちの夜
♪上を向いて歩こう にじんだ星をかぞえて 思い出す夏の日 一人ぽっちの夜
♪幸せは雲の上に 幸せは空の上に

♪上を向いて歩こう 涙がこぼれないように 泣きながら歩く 一人ぽっちの夜
♪思い出す秋の日 一人ぽっちの夜 悲しみは星のかげに 悲しみは月のかげに
♪上を向いて歩こう 涙がこぼれないように 泣きながら歩く 一人ぽっちの夜

♪一人ぽっちの夜

♪一人ぽっちの夜

【2005年11月 旅日記】


■サヨナラ、ボリビア・・・。  


ラグナ・ベルデから戻ってきて、今度はフルパッキングで出発。

これからチリに入国して、サンペドロ・デ・アタカマという村を目指す。
チリに入国して、12km走って舗装路になる。
久しぶりの舗装路だ。

まずはボリビアのイミグレーションへ。
ゆっくりと上る。
背後にはラグナ・ブランカと雪を纏った山々が連なっている。

さよなら!ボリビア!
かなりハードな旅だったけど、景色はかなり美しかった。
もう二度と自転車では走らないぞ!

今度は4WDで来て、走っている自転車に「Just Wind?」と聞いてみたい。

【2005年11月 旅日記】


■ようやく・・・。  


朝7時に起床。
折角、今日はチリに入国して、アタカマの村までのショートライドだと思ったのに・・・。
昨日見れなかったラグナ・ベルデを見に行く為に早く起きる。

ラグナ・ベルデは、一番緑色に見える時間帯は朝の9時。
今の場所から距離にして10kmぐらいだから、まぁ余裕で見れるだろう。
フルパッキンで行くのではなく、宿に荷物を置いて空荷で行く。

ラグナ・コロラダは、午後2時ぐらいがベスト。
ちょうどその時間帯に展望台に居たので、燃えるような紅が見えた。
だから、かなり期待大。

空荷だから早く着くだろうと思っていたけど、やっぱりコルゲと砂に悩まされる。
結局、到着したのは8時半頃だった。
天高くリカンカブールが聳え、その下には緑色の湖が・・・と、期待していたよりは、緑ではなかった。

パンフレットとかで見るラグナ・ベルデはエメラルド色をしている。
カメラで撮る時、フィルターでも使っているのか?と疑わしいほど。
はて・・・?

緑色に見える時間帯は正しいはずだ。
ウユニの街でも、ベストな時間帯は朝9時だと聞いていた。
確かに綺麗だけど・・・もうちょっと緑かと思った。

まぁもうこの際、色なんてどうでもいい。
いずれにせよ、一応エドゥアルド・アバロア国立自然保護区を完走という事だ!
やっと、ボリビアの旅も終わる。

【2005年11月 旅日記】


■ついに!  


峠を越えて下ると、目の前に富士山の様な山が飛び込んできた。
そう、あれこそ目標としていた標高5,916mのリカンカブールだ。
ボリビア最南端の山、そして、聖なる山として崇められている。

右にあるのはフリケスで、その麓にラグナ・ベルデが存在する。
標高4,400mに位置しており、その光の反射によって「緑」に見える湖として有名だ。
ラグナ・コロラダと並んでメインスポットで、宝石の1つに数えられている。

ラグナ・ベルデは双子湖。
真ん中に小さな道?があって2つに分けられている。
今日はラグナ・ベルデ湖畔にある温泉までの予定。

がっ!道が悪く分岐が分からない。
このままでは、チリ国境方面に向かってしまう。
色々と探したけれど見つからない。

しょうがない諦めて、一路チリ国境方面を目指す。
その手前にはラグナ・ベルデの集落があるので、そこを今日の目的地とした。
そして、リカンカブール、フリケスをバックにラグナ・ベルデを入れて写真を撮る。

が、どうも緑には見えない。
「まぁ、緑と言えば多少緑だけど・・・」と疑問を持ちながらも走る。
少し走ってリカンカブールの奥の麓に、更に緑色の湖が見えた。

はて・・・?
更に緑があるぞ・・・。
嫌な予感がするが、まあいいやと思い走り続ける。

風は依然として収まる気配は無い。
しばらく走って、自然保護区の管理事務所に到着。
自然保護区には30ボリビアーノを支払って、4日間滞在できる。

事務所に切符を持っていき、穴を開けてもらう。
自分はちょうど今日で4日目だけど、明日になったら、もう30ボリビアーノを支払わなければならないのだろうか。
この辺りでテントを張って良いかと尋ねると、自然保護区内なのでテントは禁止だって。

マジ?
昨日も一昨日もテント張っていたけど・・・。
しかも、風が強いので飛ばされてしまうから危険だと。

えーっ!
そんなの今まで普通に経験していますけど・・・。
しょうがないラグナ・ベルデの村落まで戻るかと思ったら、目の前にある建物がオスペダヘ(安宿)だと言う。

行って尋ねてみると、本当は40ボリビアーノ(約500円)との事。
しかし、「自転車で頑張っているから、半額の20ボリビーノでいいよ」と。
「嬉しい事言ってくれるじゃないの!ありがとう!」

早速チェックイン。
オーナーに色々と聞いてみると、普通はこんなに風は強くないらしい。
そして、湖は向かって右が「ラグナ・ブランカ(白い湖)、左奥がラグナ・ベルデ。」だって。

「・・・まじ?」

「そうだよ、手前の湖はラグナ・ベルデじゃないよ。あの奥がラグナ・ベルデ。」

「・・・くそ」

走っている途中に見えた、更に奥にある湖がラグナ・ベルデだった・・・やられた。
けど、今から行くには遅すぎる。
既に4時を過ぎているし、しかも風が強い。

結局、考えた末、明日の朝早く見に行くことにした。
まったく!標識とかサインぐらい出しておけよ!
写真はラグナ・ブランカとフリケスとリカンカブールだけど、確かに白に見えるなぁ・・・。

【2005年11月 旅日記】


■言い方  


ラグナ・サラダからラグナ・ベルデへの峠越え。
向かい風がものすごく、走る事が出来ず、ひたすら押していた。
突風で砂が舞い上がり、容赦無く顔に突き刺さる。

幾つかツアー客の乗せた4WDがすれ違う。
その度に道を空けないと駄目だし、すれ違う時、かなりの砂埃を巻き上げていく。
正直、ツアー客の車が来るとイライラしていた。

珍しいものを見るようにして、車が通り過ぎる。
そして、峠の近くで一台の車が止まった。
運転手のドアが開いて、声をかけてくる。

「オラ!(よう!)」と。

はて?なんだ?

一応、こちらも「オラ」と答える。
風はかなり強く、車のドアも開けるのがしんどいようだ。
後に乗っている欧米人らしき人がドアを開けて、言った。

「Just Wind?」と。

自分の英語力が正しければ、彼は「風だけが問題かい?」と聞いているのだろうか?
そうとしか訳せない。
他になんて訳すんだ?他の訳があれば教えて欲しい。

「はぁ?」って感じ。
馬鹿野郎!「風だけ?」ぢゃないだろう!!
その「風」が大変なんだよ!その風で自転車に乗る事ができないんだよ!

お前はただ車に乗っているだけだろう!
この「風」を感じているのか!?
この野郎!とかなりムカついた。

その後、彼は何かを言っていたけど、風で聞き取れない。
かなりムカついたけど「エスタ・ビエン(大丈夫)」と言って、自分は前を向いて押し始めた。
後を振り返る気も無く、ひたすら押す。

確かに彼は「何か問題があって押しているのかな?」と思ったのかもしれない。
大丈夫か?と声をかけてきてくれたのは、こっちだって理解できる。
しかし、その言い方は無いだろう。

さすがにこの言い方は癇に触れた。
まぁ言い返しても疲れるだけなので、走り(押し?)に力を入れた方がいい。
自然と一生懸命、格闘しているってのに水を差しやがって。

ブツブツいいながら押して、やっと峠が越える事ができた。

【2005年11月 旅日記】


■風  


自転車の旅で、忌み嫌われるのが風。
追い風なら当然、毎日ウェルカムだけど、向かい風ならノーサンキュー。

ラグナ・サラダで良い湯加減を楽しんだ後、風が出てきた。
むむむ、夜はいつも風は止んでいるほうなのに。
吹き始めるのは大体午前10時を過ぎてからなので、「そのうち止むだろう」と思い、眠りについた。

朝、風の音で目が覚めた。
既に吹いていて、しかも、かなりの強風。
出発の準備をするが、風が強くて時間がかかる。

一路、南下する。
路面は多少砂が多いので、時々押しが入る。
風が右からの西風で、強風ではなくて烈風と言った感じ。

顔を上げると風が強くて息ができない。
息する時は下を向かないと駄目だ。
まぁ向かい風でないのが救いだ。

15km地点辺りから上りになり、峠越えが始まる。
標高4,300mから4,600mへのわずか300m差。
舗装路だったら1時間もかからないだろう。

しかし、道は直登で、山と山の間をぬって道がある。
その為、吹き降ろしの風になってしまった。
当然、向かい風。

風と言えば、日本では栃木にある茶臼岳だけがすごい。
標高2,000mに満たない山だけど、冬の風の強さは表現できないほど。
茶臼岳と朝日岳の鞍部は、地形的に風の通り道になっていて、そこに立つと風で立っていられない程。

風が強い場所では、耐風姿勢というのがあるけれど、それもどうだかと言った感じ。
もう烈風や突風という言葉を通り過ぎて、風が顔に当たって「痛い」。
台風以上の風が吹いていて、「また大袈裟な・・・」と思う人は是非とも訪れて欲しい。

まぁ、ここの風は茶臼岳ほどではないけれど、かなり苦戦。
しかも、風、上り坂、未舗装路の三重苦。
風は烈風、上り坂は急、舗装路は玉砂利で足元が滑る。

結局、峠につくまでに麓から2時間かかってしまった。
相変わらず、すんなりと走らせてはくれないようだ。
峠を越えた先の景色は、雪が纏った山々が聳えていて綺麗だった。

【2005年11月 旅日記】


■いい湯だな〜  


標高4,850mの峠を無事にクリアして、ここから500mのダウンヒルが始まる。
道はちょっと砂が多めなので、ハンドル操作には注意が必要だ。
これを逆から上るのも大変そうだ。

目の前にはラグナ・サラダが広がっていて、今日はラグナ・サラダまでのショートライド。
なんと、このラグナ・サラダの脇に温泉があり、しかも湯温は高めと言う。
そのため、温泉の近くにテントを張って、温泉三昧にする予定。

ラグナ・サラダに湖畔に到着。
何処に温泉があるんだ?とキョロキョロ。
2つ湯船があって、先の湯船のほうが湯音が高いという情報が得ていた。

途中、建物があって、水が売っているかもしれないと思い尋ねる。
そしたら、建物の目の前から温泉が湧き出ているからそれが飲めるというではないか。

行ってみると、ペットボトルの口から水が出ている。
触ってみると温く、どうやら温泉のようだ。
まぁ大丈夫だろうと思って飲んでみる。大丈夫なようだ。

10L満タンにしていざ出発!
そして、500m走って、湯船らしきものを発見したけど、路上からは丸見えだ。
その脇には、なんだか工事をしているらしく多くの人が働いている。

早速、脇にテントを張る。
まだ10時だと言うのに、こんなに早くテントを張るのは久しぶりだ。
そして、短パンに着替えて、湯船に浸かる。

「・・・」

言葉が無い。
というより、言葉が出ない。
もう気持ちよすぎる。

青い空の下、湖を見ながらの温泉。
なんという贅沢な一時だろう。
時間が早いせいか、観光客もいないので、独り占めだ。

うーむ、やっぱり温泉だよな。日本文化万歳!!

腕をこすると出るわ出るわ、垢だらけ。
風呂に入ったのは、ウユニの町だから6日前だ。
この温泉のお陰で、おかげで綺麗になった。

それから2時間ぐらい浸かり、テントに戻って休んでいると、来るわ来るわ観光客が。
4WDが10台ぐらい止まっている。
当然着替える場所なんてないので、みんな素っ裸になって水着に着替えている。

さすが欧米人、周囲の視線を気にしない。
そして、湯船の中は、もう鮨詰め状態。
いやー良かった、早く入って。

そして太陽が沈み、星が出てきた。
この調子では、気温はまたしても氷点下になるだろう。
しかし、寒さに耐えながら裸になり、湯船に浸かった。

今度は星を見ながらの温泉。
うーむ、更に日本文化万歳だ!!
いやー、最高です。

明日はこの場所で最後の見所、「ラグナ・ベルデ」を目指す。

【2005年11月 旅日記】


■再び温泉卵  


昨日テントを張った横には、地面から煙がモクモク出ていた。
この辺りは火山地帯なので、あちこちに間欠泉や温泉がある。
ラグナ・コロラダにも温泉はあるけれど、湯温が低いので入れなかった。

テントの横には硫黄の匂いがして、地元箱根の大涌谷を思い出させる。
何故ここにテントを張ったかというと、このブクブク沸騰している所に卵を入れて、温泉卵を作りたい衝動にかられたからだ。
テントを張って、卵を入れ、待つこと30分。

以前、ウルミリの温泉で、お湯に浸けた時間が長かったので、中身が固まっていた。
それを教訓として30分で上げてみた。
コップの中に割ってみる。

なんと!
まだまだ早すぎたようで液体のまま。
あちゃー、大失敗。

捨てるなんて事は出来ないので、そのまま飲んでしまった。
ちょっと時間が早すぎたのかな?それとも湯温が低すぎたかな?
いずれにせよ、なかなか難しいものだ。

ここから少し離れた場所には「ソル・デ・マニャーナ(朝陽)」という間欠泉がある。
まぁ間欠泉はアメリカ合衆国のイエローストーン国立公園で嫌というほど見ているので、自分は行かなかった。
イエローストーンでも、温泉卵に挑戦したけど、駄目だった。

なかなか難しいものだ。

【2005年11月 旅日記】


■記録更新  


ラグナ・コロラダを出発。
湖畔沿いの道を南下するけれど、コルゲーションがかなりひどい。
体と自転車すべてが上下に揺れ、再び我慢の走りが続く。

そして、出発して2時間ぐらいで、峠の下に到着。
ここから上りが始まる。
標高4,300mからスタートし、いきなり直登だけど、路面状況がいいので走れる。

峠は標高4,850mなので、標高差500m。
舗装路だったら1時間半ぐらいで上れるけど、ここは未舗装路。
しかも、標高4,000m以上なので、かなりの時間がかかるだろう。

なんとか4,600mまで上り、ここから傾斜が緩やかになった。
途端に風が出てきた。
再び西からの強風だけど、もうこの程度では驚かない。

時々トラックがすれ違って、手を振ってくれる。
こういう何気ないのが嬉しい。
風が強すぎるので、走る事が出来ず、再び押しが入る。

なんとかチリへの分岐点に到着。
標高4,800mぐらい。
時間は既に3時を過ぎていて、通り過ぎる車は、ツア−客ぐらいだ。

そこから少し走って、ここが恐らく道中最高地点である標高4,850mだ。
またしても記録更新!!標高4,800mを越えても自転車で走れるんだなぁと感じた。
そして、風の吹く中、四苦八苦しながらテントを張る。

いつもの様にレモン・ティーで一服し、外に出て空を仰ぐ。
雲一つ無い、どこまでも高く、澄み切っている。
その色は、まさにボリビアン・ブルーだ。

自分が求めていた「青」が、そこには存在した。

今日は大変だったけど、幸せな一時だった。
今日の走行距離34km、走行時間5時間40分、平均速度5.9km/hだった。
自転車で走っている速度じゃない!!

【2005年11月 旅日記】


■燃える湖  


翌日は7時に起床。
宿泊代10ボリビアーノ(約90円)を支払って出発した。
労働者達も仕事に行くようで、手を振ってくれる。

本当にありがとう!
体調も問題は無いようだ。
どうやら無事に走れそうだ。

カピナを出て、道はかなりいい状態。
やはり、トラックが走るから整備されているのだろう。
整備と言っても未舗装路だけど。

1時間30分で13kmも進め、かなり良いペースだ。
風は無いけれど、気温は氷点下5度ぐらい。
耳あて、防寒グローブとインナー・グローブの2枚重ねで防寒はしっかり。

そして、20kmぐらいを過ぎたあたりで下り坂になり、標高4,500mの峠をクリア。
そこから、なんとラグナ・コロラダ(コロラダ湖)が見えた。
このラグナ・コロラダは、プランクトンなどで光の屈折により紅く見えるという事で有名。

遠くから見たコロラダは確かに紅く発色している。
これにはさすがに驚いた。
本当に紅いんだ・・・・と。

下って、湖畔にある管理事務所に到着。
ここから国立自然保護区になるので、入場料が必要。
4日限定で30ボリビアーノ(約300円)。

切符を貰い、記念にパスポートに自然保護区のハンコを押してもらった。
ここのハンコは、フラミンゴの絵が書いてある。
これは結構オススメだ。

そして、湖畔沿いを走って、一路ラグナ・コロラダの集落へ向かう。
この湖畔沿いの道も悪路で13km全く乗れず、ひたすら押していた。
あと1kmという所で展望台があり、疲れた体に鞭を打って、高台に行く。

そこからの景色は、この世の世界では無いような気がした。
殺伐した荒野に聳える赤茶けた山々、その下に広がる紅い湖。
まさに生命の営みを拒絶する世界。

空の青、大地の茶、そして湖の紅。
どんなツアー客よりも、その景色は美しく見えただろう。
そして、その湖は、確かに燃えるように紅かった。

このラグナ・コロラダには、世界で5種類しかいないフラミンゴがここの地域に3種類も生息している。
湖の中にピンク色の無数の点が見えるけど、あれがフラミンゴなのだろう。
そのために自然保護区に指定されているようだ。

そして、ラグナ・コロラダの集落に到着。
ここにも村があり、宿もあれば店もある。
米、パン、野菜、缶詰などの食料も手に入る。

ここにも管理事務所があって、昨日の夕方、1人の日本人が自転車で来たという。
恐らく、阿部クンだろう。
無事にコロラダ北部の砂漠を越えてきたようだ。

体調は良くなったけれど、下痢がちょっと収まらない。
ここでも投宿して、ひたすら安静に努めた。
明日は待ちに待った標高4,800mの峠越えだ。

【2005年11月 旅日記】


■休憩  


食堂から戻って部屋に入ったけど、またしても嘔吐してしまった。

何故だ?高山病ではない事は確かだ。
しかも下痢で、なんだか液体だ。
心臓は痛くないが、ちょっとチクってするくらい。

周囲には町なんて無い。
どうやら自力で直すしかないようだ。
という事で翌日は、出発せずに休憩に当てた。

外は朝から強風が吹いている。
本当に過酷な厳しい環境だ。
そんな厳しい状況でも、労働者は既に働きに行っている。

食欲は無く、レモンティーとビスケットのみ。
一日何もする事無く、ただひたすら休んでいた。
夕方頃にはなんとか体調も良くなってきたので、これで明日は出発できるだろう。

それにしても原因はなんだろう??
疲れなのかな?
こんな事初めてだ。

写真はカピナの宿舎。

【2005年11月 旅日記】


■カピナ  


カピナに到着した。

ここカピナは村ではなく、カピナ塩湖で働く労働者の宿舎だ。
オフィスで尋ねると部屋を用意してくれた。
ここの事は、以前ここを走った事のある友人から情報を得ていた。

ここでは100人近い労働者が働いていて、食堂もあり、シャワーもあり、パン工房もある。
一応、アンテナがあって、テレビも見る事ができる。
電気は夜7時からなので、テレビも7時から。

食料はウユニの街から運んで来るという。

労働者は、朝7時から夕方5時頃に帰ってくる。
仕事の内容は、カピナ塩湖での採塩で、採塩した塩は、チリやアルゼンチンに輸出しているという。

標高4,300mと言う高所、毎日絶え間なく吹く強風。
窓から外を見ても、紺碧の空が広がっているが、かなり厳しい仕事環境だ。
だから、労働者は毎日コカの葉を口に含みながら働いている。

コカの葉は、その名前のとおりコカイン。
口の中に入れて、噛む事によって、神経が麻痺し、疲れを感じなくなる。
そこまでして働かなければならないのか・・・。

部屋の中で、バーナーでお湯を沸かして紅茶で一服する。
途中で休憩する事も無く、ひたすら走ってきたので空腹だ。
チョコやビスケットを食べたら、なんとか落ち着き、心臓の方も痛みが治まった。

しかし、少ししたら、嘔吐してしまった。
なんでだ?空腹にいきなり食べ物を入れたからか?
こんな事って初めてだ。

そしたら、オーナーが「食堂に紅茶があるから飲みな」と言ってくれた。
食堂には既に仕事を終えた人が数人、パンと紅茶を食べて休んでいた。
食堂に入ると、珍しいモノを見るかのように視線が集まる。

食欲がないけれど、折角用意してくれたので、パンを1つとコカ茶を貰って食べる。
他の人たちは黙々と食べている。
まるで機械であるかのように。

娯楽なんて、何一つ無いこの場所。
あるのは、生命の営みを拒絶した世界が広がるのみ。
皆、何を励みに頑張っているのだろうか。

そう感じたら自分が、すごく場違いな気がしてきた。
自転車で旅しているなんて、働いている人から見れば、優雅な奴だよなと思われるだろう。
「旅」なんて言っているけど、所詮、遊んでいるに過ぎない。

外は未だ強風が吹き荒れ、太陽が沈めば、氷点下の世界だろう。
今までそのような環境は経験してきたのに、それでも部屋に泊めてもらう。
別に外でテントを張ってもいいはずだ。

しかし、今日はかなり疲れて、心臓も痛かった。
かなり精神的に疲れていたので、部屋を割り当ててもらった。
自分自身がすごくあまえている感じがした。

昔、ある人が自転車で世界を一周した時の話。

アフリカでマラリアとコレラのダブルパンチに会いダウン。
とある村で倒れ、村長を始め、村人総出で看病に当たってくれた。
数少ない薬をくれて、食事も貴重な鶏を捌いてくれた。

この時、その人は「自分が生きているのではなく、生かされているのだ」と感じたという。

まさにそれと同じ様に感じた。
もしここに宿舎がなければ、このように風を凌ぎ、暖かいコカ茶を飲む事なんて出来ない。
ここにこうして宿舎があるから、自分はこうして休んでいられるんだと感じた。

と思うと、うまく表現ができないけれど、本当に感謝の気持ちで一杯になった。
旅は自分一人の力で行っているのでない。
周囲の出会う人々のおかげで、自分の旅が成り立っているんだと改めて感じた。

心の中で「ありがとう」と言って、部屋に戻って眠りに付いた。

【2005年11月 旅日記】


■心臓  


標高3,900mのビジャ・マルを出発し、一路標高4,500mの峠を越えて、カピナという場所を目指す。
道は砂から石に変わり、拳大の大きさの石が転がっていて、これまた走りにくい。
地図によると、この道はかなりのマイナーロードのようだ。

10kmぐらい走って、峠の下に到着。
目の前には天高く山が聳え、その山に向かって道が伸びている。
どうやら、しんどい峠越えになりそうだ。

いよいよ峠越えがスタート。
かなりガレているので走る事は出来ず、ひたすら押す。
しかも傾斜がかなり急なので押すのも一苦労だ。

標高4,000mを越え、少し押しては休み、少し押しては休むの繰り返し。
標高4,300mを越えた辺りから、息苦しくなってきた。
しかも心臓がズキズキ痛み出した。

「はて・・・?」

高山病でも無いだろうし。
まさかここでそのまま・・・なんて悪い予感が。
ビジャ・マルに戻るのも嫌だし、痛みを我慢して進む事にした。

標高4,500mの峠に到着。
そしたら、また遠くに上り坂が見えた。
また上りか・・・と絶望に近い気持ちが支配する。

幾分、傾斜は緩いが、まだ心臓が痛い。
走る事無く、ひたすら押し、再び、少し押しては休み、少し押しては休むの繰り返し。
我慢の走りが続く。

峠を越えて、やっと下りで一安心。
そしたら、風が出てきた。
当然西からの強風で、とにかく強い。

何故こんなに強いんだ?
地形的からくるものなのか?
どうやら、今まで西側に山が聳えていたので、風を感じなかったようだ。

下りだけど、道は依然としてガレガレ。
ホイールが痛みそうで恐いので、ゆっくりと走る。
スピードは上りの時と同じくらい遅く、下りの意味が無い!!

しかも、横からの風でバランスを崩す。
絶えず強風が吹いているけれど、たまに強い突風が吹いて、砂埃が顔に当たって痛い。
下りを楽しむ峠では全くない。

午後3時ぐらいを過ぎたので、ツアー客を乗せた4WDがすれ違っていく。
珍しそうに見ていくツアー客。
車の中は別世界なんだろうなぁ・・・。

1台の車が止まった。
中を見ると、男性2人乗っている。
1人の男性が降りてきた。

自分は、カピナはこの方面でいいか尋ねた。
そしたら向こうも分からないようだ。
どうやら、迷っているみたいだ。

ビジャ・マル?と自分が来た方向を指差してくる。
スペイン語で回答すると、スペイン語は話せないというではないか。
もうこんな状況で英語が出て来ることも無く、指を指して「ビジャ・マル」と言うと理解してくれたようだ。

全く・・・。
自転車に道聞くなよ!
確かに困っている時はお互い様だけどさ・・・。

車なんだから取り合えず行けばいいだろっ!
迷ったって戻ってくればいいんだからっ!
地図は持っているのになんで迷うんだよっ!事前調査をしろっ!

つーかここは南米だっ!
スペイン語を話せるようになってから来いっ!
迷うような事があるんだったら、このような僻地を走るんじゃないっ!ガイドと来いっ!と毒つきたくなった。

しかし、こっちは心臓も痛い、風も強く砂埃で痛い、道は最悪、そして疲れが限界だ。
もうどうでもいいやと気持ちになった。
とにかく走ろう。

そして、標高4,300mのカピナ塩湖に到着。
ここからは塩湖労働者のトラックが走っているので、道路状況が良くなった。
ようやくカピナへ。

いやー、今日は疲れた。
本日の走行距離は37km、走行時間6時間、平均速度6.1km/h。
自転車で走っている数字ではない。

【2005年11月 旅日記】


■生活  


ボリビア南部は、北部と比べると町は無く、殆どが人口100人未満の村ばかり。
どうしてここに住んでいるだ?と疑問があるが、村人たちは首都のラ・パスに出たいという思いは無さそうだ。
どうやら、今の生活に満足はしているようだ。

まぁ全て先住民なので、先祖代々の土地を捨ててまで、他の場所へ移ろうと言う考えは無いのだろう。
それはそれでいい事だけど、多少は不便を感じないのだろうか?
これはやはり文明社会に浸りまくっている日本人的考えなのだろう。

ここでは、電気は夜6時から灯される。
村の外れにジェネレーターがあって、そこで電気を発電して各家庭に供給している。
それまでは、太陽があるから灯りは必要無いのだ。

水はポンプで地下から汲み上げていて、各家庭には一応蛇口があって水が使える。
この辺りは塩湖もあるので、味は塩っぽくないのだろうか?
実際にその水を貰って飲んでみるけれど、塩っぱく無い。

水は確かに売っているけれど、10Lも買うとお金も馬鹿にならない。
もうA型肝炎には罹っているのでもう大丈夫だし、下痢も大丈夫だろう。
という考えは甘いのかな?

食料などは、週に何便かトラックが来て補給を受けているようだ。
店には米、パン、ツナ、サーディンなどの缶詰、野菜、水、ジュース、ビールなど一応、生活には困らない程度の食料は手に入る。
ちょうどビジャ・マルという村にいた時、輸送物資のトラックが来ていた。

この村では久しぶりにビールを飲んだ。
「サルタ」というアルゼンチンビール。
その夜は、昼寝をしてしまったので、夜寝つきは遅かった。

明日は標高3,900mから4,500mへの峠越えだ。

【2005年11月 旅日記】


■コルゲーション  


未舗装路で嫌われるのが、このコルゲーションと深砂。
コルゲーションとは英語で「洗濯板状」という意味。
我々サイクリストは、略して「コルゲ」と呼び、スペイン語では「カラミナ」と言う。

その名前の通り洗濯板のように一定間隔で、小さなコブが連続している。
ここを走ると、体と荷物、自転車は上下に揺れるため、キャリアに震動が伝わり、キャリアが折れるというトラブルが発生する。
そのため、コルゲーションがある場所を走る場合は、キャリアが折れた時の応急処置の為に、針金とプライヤーは必携だ。

このコルゲーションが何故できるのかは不明で、時には10〜20cmぐらい深いコルゲもある。
友達が言うには「4WDやトラックのタイヤの圧力の違いによってできる」と言っていたが、本当かどうか定かではない。
圧力の違いでこのような綺麗な間隔にできるのだろうか?

自転車のキャリアは、オーストラリアのコルゲでもうバキバキに壊れてしまい、溶接しまくりの状態。
キャリアの素材も溶接が簡単な「鉄」がベストで、アルミはやめた方がベター。
グアテマラで溶接してもらってからは、今の所、壊れていない。

車やバイクの場合は、スピードを出した方が振動の揺れが少ない。
自転車の場合はそうはいかず、スピードを出しすぎるとホイールに負担がかかる。
そのため、なるべくコルゲが小さい場所を探しながらウロウロするしか方法が無い。

ラグナ・コロラダ周辺の道は、コルゲがかなりひどかった。

【2005年11月 旅日記】


■奇岩群  


標高3,700mのビジャ・アロタを出発。
ヨーコさんから貰った援助物資で栄養を付けて、一路南下。
バジェ・デル・ロカを目指す。

ビジャ・アロタから西に向かって、チリ国境付近を南下すると、ラグナ・コロラダ(コロラダ湖)に出る。
この湖の北部は完全な砂漠地帯となるため、超深砂の連続らしい。
「もう砂はいい」と思い、ビジャ・アロタから南下して、ラグナ・コロラダを西部から入る事にした。

ビジャ・アロタからの道は、上り坂でかなりガレている。
乗って走る事ができず、ひたすら押し。
標高差200mを1時間半かかった。

標高3,900mに到着したら、道は平らになり、なんとか走れるようになった。
そしたら、今度はコルゲーションの連続で、さすがに楽には終わらしてはくれないようだ。
そして、バジェ・デル・ロカに到着。

「バジェ・デル・ロカ」は訳すと「岩の谷」。
その名前の通り、大小様々な奇岩があちこちに点在している。
ここは観光場所だけあって、4WDのツアー連中が数台止まっている。

4WDが全て去り、誰も居なくなると、ここぞとばかりにテント設営。
今日はここで野宿するので、このバジェ・デル・ロカを独り占めだ。
夕方になると西風が更に強まったが、岩陰にテントを張っているので問題は無い。

今日はさすがに「押し」の時間が長かったのでかなり疲れた。
明日はどんな走りになるのだろうか。
陽が沈むと同時に眠りに入っていった。

【2005年11月 旅日記】


■援助物資  


ヨーコさんと再会して、写真を撮ったり、色々と話をして、最後になんと援助物資を頂いた。
サヨナラをしてビジャ・アロタに到着。
休憩をしている時にその援助物資の中を見てみた。

なんと!わんさと入っているではないか!!
日本語で書かれた様々なモノがたくさんと!
今の自分にとっては豪華な食べ物ばかり。

・左下:「味の素の梅がゆ」2つ
・左上:ホッカイロ
・中上:梅干の入っタッパ
・中:「豆乳で作ったショコラケーキ」というお菓子
・中下:「レモンのたね」というキャンディ
・右:ドリンクゼリー

特に「レモンのたね」というキャンディは走っている最中には最高。
梅干も持っていたけど、残り少なくなっていたのでかなり嬉しい。 ドリンク・ゼリーも南米で入手する事は不可能だ。

本当に貴重な援助物資ありがとうございました、ヨーコさん!

【2005年11月 旅日記】


■再会  


ウユニの街を出発し、初日はクルピナという村に滞在。
旅行会社の人達が言うように、道路状況はかなり良く、本当にアスファルトのようだった。
久々にかっとんで、105kmを叩き出す事ができた。

翌日はビジャ・アロタを過ぎて、その先に奇岩群があるというので、そこを今日の目的地とした。
クルピナからコルゲーションが多くなり、時々砂混じりになって来た。
押す事も無く、12km/hペースで走っていて、交通量は殆ど無く、たまに地元の車が通るくらい。

そんな時、前方からオフロード用のバイクが走ってきた。
ん?ライダーか?と思いつつ見てみると、荷物を積んでいない。
どうやら地物の人間かと思い、走り続けた。

そしたら、再び2台目、3台目、4台目と通り過ぎていった。
うーむ、地元の人間にしてみては、服装がきちんとしたバイク用のジャケットなどを着込んでいる。
何かのバイクツアーかな?と思った。

そして、5台目が通り過ぎようとした時だった。
その5台目が自分の横で止まって、自分の名前を呼ぶ。
よく見るとなんとヨーコさんではないか!

実はラ・パスにいる時、ヨーコさんからメールが来て、ウユニ塩湖とボリビア南部を走ると言うメール貰った。
そして、自分はラパスを出発。
ウユニでメールを見た時は、ヨーコさんは既にチリのアタカマに到着していた。

ヨーコさんは、ラ・パスからウユニ塩湖を経由して、エドゥアルド・アバロア国立自然保護区を走ったらしい。
そして、明日から再び自然保護区を経由してラ・パスに戻るという。
自分も道中すれ違うかなと思っていたが、まさかこんな場所で会うとは!

彼女と出会ったのは、自分が25歳の時で、年末年始に北海道の道東ツーリングに行った時だった。

屈斜路湖湖畔に温泉があるという事で、今日はここでテントを張ろうと決めていた。
湖畔に行ってみると、2人のライダーがいた。
「はて?こんな冬にツーリングする人なんているんかい?」と思いつつ聞いてみると、夫婦で旅をしていると言う。

それがヨーコさんと旦那のトモヤさんだった。
東京に住み、お互いアウトドア業界で働いて、大のアウトドア好き。
トモヤさんは冬の北海道は数回来ているらしく、ヨーコさんは初めて挑戦だと言う。

すげー、冬にバイクツーリングかよー、と驚きであった。
もう1人のライダー、そして車で遊びに来た2人を加えて、氷点下10度の中、酒宴を開いて、旅の話を花を咲かせた。
そして、雪を見ながら温泉に入った。

この旅は、自分のとってターニングポイントとなった旅だった。
この旅を終えて、冬でも走れるという自信が付き、海外を本格的に目指す事となったのだ。
それ以来、この夫婦とは連絡を取り合っていて、海外に出る前には送別会をやってくれたりもした。

そして、ここでまさかの再会。
今回はヨーコさんだけで、トモヤさんは残念ながら日本でお留守番。
来年?は2人で北米から南米までアメリカ大陸を縦断する予定だとか。

自分がアメリカ大陸にいる間に出発してくださいね!
うーむ、これだから旅は止められない。
やっぱり「旅の醍醐味は出会い」ですな。

【2005年11月 旅日記】


■模様


ウユニの街を出発して、その途中、泥沼が乾燥してひび割れていた部分があった。
自然が創り出した芸術品。
2度と同じ紋様は存在しないだろう。

この辺りの雨季は1月から3月ぐらいで、現在は10月。
約7ヶ月もの間、このままで保存されているようだ。
雨が降り、また乾季になれば、違った模様が出来るのだろう。

こういうちょっとした事が、心を癒してくれる。

【2005年11月 旅日記】


■宝石の道  


ウユニでは5日間滞在し、十分に鋭気を養う事ができた。
雅龍クンは自分の出発する2日前に、チャリダー・アキは3日前に出発した。
雅龍クンは同じ国立自然保護区へ、チャリダー・アキはビジャソン経由でアルゼンチンへ向かった。

いよいよ自分も出発。
またハードな旅が続く。
ボリビア南部は何度も書いているけれど、エドゥアルド・アバロア国立自然保護区に指定されている。

平均高度4,200m。
植生は殆ど発達せず、あるのはブッシュのみ。
周囲は赤茶けた大地で、殺伐とした荒野に5,000mを越す火山が聳えている。

そして、色とりどりの湖が点在している。
その湖の色が、緑や赤、黄色や水色、白に発色する事から、「ルタ・デル・オヤ(宝石の道)」と呼ばれている。
ライダーの間では、南米一美しい景色が見れる道ということ有名だ。

この道を通ってチリに入国し、サンペドロ・デ・アタカマという街まで行くのが定番ルートだ。
景色は綺麗だけど、道路状況は至って最悪で、深砂、コルゲーション、渡河などがオンパレード。
自転車ではかなり大変だけど、それでもここを走ろうと思うのが「日本人」なんだろう。

ウユニの街からビジャ・アロタという村までの道路状況は良いらしい。
各旅行会社に問い合わせてもアスファルトの様だという。
まぁ所詮、南米なので言葉半分に聞いておいた方がいいだろう。

さて、もういっちょ気合を入れて行きますか。

【2005年11月 旅日記】


■サイクリスト  


ウユニの街に滞在中、欧米人サイクリストがたくさんやって来た。
さすがはウユニ塩湖。
皆、ウユニ塩湖を目指して、やって来るのであろう。

バックパッカーとなると、各国の旅行者がいるけれど、サイクリストとなるとかなり国が限定されてくる。
アジア系では、日本人以外のサイクリストは皆無。
韓国人、中国人などは全くいない。


欧米系になると圧倒的にドイツ人が多い。
その次にスイス人、フランス、イギリス。
たまにオランダ、スペインがいるかなといった感じ。

しかも辺鄙な所を走っているサイクリストは、統計を出すと日本人かドイツ人となるようだ。(どこの統計だ?)

オーストラリアに居た時、同じような事を現地人にそう言われた。
オーストラリアのアウトバック(内陸の砂漠地帯)にいるのは、原住民のアボリジニか日本人かドイツ人だって。
カナダ北部のマイナー道路にいたサイクリストは、ドイツ人カップルだった。

エクストリーム・ツーリングで有名な安東浩正氏が、厳冬期シベリアのバイカル湖を走っている時の事。
とある自転車の集団が同じようにバイカル湖を走っていたという。
尋ねると国籍はドイツ人。

うーむ、この統計はあっているようだ。
どうやら、「困難な壁を乗り越えて達成感を感じる」という考えがあるようだ。
だから辺鄙な場所を走って、「走り抜いたぞ!」という達成感を感じるのが、この2つの人種であるらしい。

確かに両国とも、共通している部分が多い。

自転車のパーツとしては「シマノ」は世界的に有名だ。
方や、ドイツのタイヤである「コンチネンタル」や「シュワルベ」と言えば、ツーリングタイヤで定評がある。
ツーリング・バッグは、ドイツの「オルトリーブ」は完全防水、キャリアへのフックも壊れない世界最強のバッグと言われている。

その他、ベンツ、BMW、トヨタ、ホンダの車関係。
キャノン、ニコン、ライカなどのカメラ関係。
このように、職人気質の分野で共通点が多い。

それに性格も似ている。
お互い大人しく、周囲に気を使うタイプ。
それに真面目で、英語がちょっと苦手。

よく言われるのが「安宿のキッチンで、皿を洗っているのは、ドイツ人か日本人」と。
お互い自分で使ったモノは自分で洗い、使って洗わないのが他の国の人。
これは実際に宿に宿泊して、本当にそうだから笑える。

ドミトリーで同室にドイツ人がいたら気を使ってくれる。
自分が寝ていたら、電気を付けないで静かに行動してくれる。
これが他の国の人だったらこうはならない。

と、これほど日本人とドイツ人はこのように共通点が多い。

確かにドイツ人と話していて気が合うのは確かだ。
戦時中、同盟国だったからなんだろうか??
いつ考えても不思議でしょうがない。

ちなみに写真は、ウユニの街の宿で会ったドイツ人ではなくてスイス人のサイクリスト。

【2005年11月 旅日記】


■雪目  


ウユニの街に到着してから目が急に痛くなり、どうやら雪目になってしまったようだ。
ウユニ塩湖を走っている時、初日はなんとも感じなかったが、2日目になんだか目にゴロツキ感があった。
目を閉じると目が痛い。

一面真っ白なウユニ塩湖は、スキー場と同じ状態。
太陽光線が反射して、目を痛めつける。
とにかく光線が強い。

折角ウユニ塩湖に来たんだから、サングラス越しではなくて直接そのまま見たいじゃんと思った。
どうやら、ちょくちょくサングラスを外していたのが、良くなかったようだ。
まぁ実際、サングラスの「質」にも問題はあると思うけど。

実は、サハマからコイパサ塩湖に向かう途中のマカヤで、夕飯の支度をしている最中にサングラスをいじっていた。
そしたらいきなり、パキッという音と共に、折れてしまった。
呆然として声もでなかった・・・・。

えっーーー!?やばい、やばすぎるよ!
サングラス無しで塩湖を走るなんて、ほぼ自殺行為だ。
雪目になるのは100%確実だ。

エクアドルでコトパクシに登った時の下山中、サングラスを外して歩いていた。
山小屋に到着した時は、視界に靄がかかったようになってしまった。
典型的な雪目の初期症状だったけど、すぐに首都キトに下山したので、特に痛くなるような事は無かった。

また、それと同じ症状になってしまったらやばい。
幸い接着剤があるのでそれで修理してみる。
よかった・・・と一息つくのも束の間、持ち上げるとくっつきが悪いようで取れてしまう。

村にある唯一の店に行ってみる。
サングラスなんてあるわけないよなぁ・・・と思い尋ねてみると、なんとあるではないか!!
助かったーー!値段は驚きの5ボリビアーノ(約70円)で、一応「UV400」とシールが貼ってある。

「本当に大丈夫か・・・??」と思いつつ、まぁ無いよりはましなのでそれを購入。
その後、コイパサ塩湖、ウユニ塩湖を走破し、ウユニの街に到着し、案の定、雪目になってしまい、痛みが生じた。
やっぱり所詮70円・・・。

ウユニの街で目薬を購入。
さっそく点眼するけれど、すぐに直るわけが無い。
翌日もまだ痛く。3日目でなんとか普通の状態に戻った。

よかった・・・場所が目だけにちょっと怖かった。
ウユニの街では30ボリビアーノ(約250円)で新しいサングラスを購入。
まぁ、これも所詮この値段なので、どこまで信用できるかどうか・・・。

1万人の町なので、質の高いサングラスなんてある訳が無い。
サイクリストの中には、数万円のサングラスを持っている人もいる。
うーむ、そこまでは出せないけど、良いのを持っていた方がいいかも。

ウユニ塩湖を走る時は、「質の良い」サングラスは必携です。

【2005年11月 旅日記】


■休憩  


ウユニの街ではクスコ、ラパスで会っている阿部雅龍クンとチャリダー・アキに再会。
雅龍クンは方向音痴の様でウユニ塩湖上で迷って、ウユニ塩湖西岸より東に向かうのに、何故か南に行ってしまったみたい。
で、途中で水が無くなり、かなり危険な状態に陥ったけど、なんとか乗り越えて、昨日ウユニに到着したようだ。

チャリダー・アキも、自分が到着した3分前に宿に到着。
昨日はウユニ塩湖上でテント泊したらしい。
かなり冷え込んで寒かったとか。

再会を祝して、メルカド(市場)へ昼食を食べに。
ここウユニには、メルカドもあるし、店もある。
インターネット屋もあれば、レストラン、本屋、薬屋だってある。

ウユニの街は、この時計台がシンボルで、ここを中心として街が広がっている。
ここ10日間、小さな村しか見て来なかったので、ウユニは大都会の様に感じる。
ちなみにウユニの街の人口は1万人。

昼食後は、各自それそれ別々に分かれて用事を済ませ、夕飯はチキン料理とビールで乾杯。
ロースト・チキンを半匹、フライドチキンを2ピース、それにフライドポテト。
ここぞとばかりに食べまくる。

一緒に食べたのは、サイクリストの他に日本人パッカーのノゾミさん。
彼は今回ペルーとラパスを旅していて、これからボリビア南部の国立自然保護区に行くとの事。
そして、以前日本で英語を教えていたというイギリス人。

5人で英語、スペイン語、日本語が入り乱れての楽しい会話となった。
うーん、久々に人間らしい生活をしている。
なんだかウユニ塩湖を走ったのが、夢のような感じがした。

【2005年11月 旅日記】