■イリマニ登山【3日目】

結局、アタックは中止にしたので、翌日は8時まで寝ていた。
フランス人は、ガイドと一緒だったので登頂できたらしい。
しかし、ドイツ人は6人中2人だけが登頂出来て、残り4人は垂直登攀で諦めたと言う。
自分はそこにすら行けなかった・・・情けない。
ガイドの妹が既に居て、ガイドに聞くと「また登って来た」と言う。
どうやら、ボリビアのポーターは、荷物を上げ終えると自分の家に帰ってしまうようだ。
自分のテントが無いからしょうがないのかもしれない。
それにしても、すごい体力である。
自分たちより体力があるのではないか?
鍛えれば、一流の登山家になりそうだ。
10時に下山開始。
一部危険箇所を無事に通過して、グングン標高を下げる。
腰はなんとか大丈夫だったけど、膝がガクガクする。
一気にピナヤまで下山。
ピナヤに到着した時は、もう足がボロボロだった。
なんだか、自分の下半身ではないような気がした。
ラ・パスに帰って、色々と原因を考えた。
クスコからラ・パスまで9日間走りっぱなしだった。
距離にすれば僅か800km弱だったけれど、標高が常に約4,000mだった。
その為、身体への負担はかなりあったのかもしれない。
そして、ラ・パスに到着して、十分な休暇も取らずにいきなり登山。
足腰が負担についていけなかった。
さすがに、自転車で旅をしながら、高所登山は無理なのか?
今後はもう登山はしないで、南米ハイライトのウユニ塩湖に全力を注がなければならない。
ここもかなりしんどい旅になりそうだ。
次の登山はアルゼンチンにある南米最高峰アコンカグア。
【2005年09月 旅日記】
■イリマニ登山【2日目】

7時に目が覚め、温度計を見てみると、テント内の気温は1度。
外は既に氷点下だけど、この標高でこの温度は暖かい方だ。
外に出てみるが、案の定、小川は凍っている。
ガイドはまだ起きておらず、他のパーティもまだ寝ているようだ。
天気は快晴で、雲一つ無い。
イリマニが東側に聳えているので、ベース・キャンプは日陰でまだ寒い。
早く太陽が顔を出して欲しいものだ。
8時を過ぎて、ガイドが起きて、お湯を沸かし始めた。
自分も外に出て、出発準備をする。
他のパーティも動き出した。
いよいよ出発し、南峰と中央峰の間を登る。
幾つかの沢があって、沢の飛沫が飛んでいる場所は凍っている。
危うく滑って、沢の中に落ちそうになった。
ここからが瓦礫の道になった。
一部、砂もあったけれど、順調に標高を稼ぐ。
かなり遅いペースで、明らかに遅いとわかる。
休憩も多く、どうやら、ボリビア人とペルー人の登山方法は違うようだ。
まぁ、高度順応には良いペースだ。
チャカルタヤの時と同様に、歩いていも息が乱れない。
だんだん登山道は細くなり、両側が切れ落ちてきた。
しかも、ガレガレで歩きにくく、一歩一歩注意しながら歩く。
出発してから休憩も含めて約5時間、14時30分に標高5,500mのハイ・キャンプに到着。
この場所は「ニド・デ・コンドレス」(コンドルの巣)と呼ばれている。
しかし、周囲を見渡したけど、コンドルは飛んでいなかった。
テントが10張りぐらいしか張れない狭い場所だ。
目の前には、中央峰から流れ出している氷河が凄い迫力だ。
その氷河が太陽に照り返されて眩しい。
南峰へのルートはたくさんあるらしいが、自分達が行くのはあくまでもノーマル・ルート。
この標高でテントを張るのは初めての経験だ。
高山病にならないだろうか、不安がよぎる。
高山病にならないためにも水分を補給する。
アイゼン、ピッケル、ハーネスのチェックをする。
明日は深夜0時に起床して、1時出発、山頂までの所要時間は約7〜8時間。
かなりの長丁場なので、改めて気合を入れ直す。
時間がゆっくりと進む。
する事は無いのでテントの中で休む。
外は風が吹いているので寒いけれど、テントの中は太陽が出ているので暖かい。
夕方になったら、なんだか腰が痛み出した。
はて?なんでだ?しかも右膝も重く、テントの外に出て、伸びをしてみる。
わずか3時間ぐらいしか歩いていないのに、もう疲れが溜まっているのか?
周囲を散策してみるが、腰に痛みが走る。
やばい・・・まぁ明日の出発は0時。
「少し眠れば直るだろう」そうタカをくくっていた。
17時にガイドがパスタを作ってくれた。
食欲が全く無いので、食べる事ができない。
ガイドの妹は、どうやら下山するようだ。
テントに入り、眠る事にした。
しかし、なかなか寝付く事が出来ず、依然として腰は痛い。
時間は刻一刻と過ぎていき、気温もぐんぐん下がる。
結局、一睡もできずに0時になり、テント内の気温氷点下10度。
腰は変わらず痛く、どう見てもこの状態で8時間も歩く事は無理だ。
しかも、垂直登攀が数箇所ある。
登頂出来たとしても、ボロボロの体で果たして下山ができるだろうか。
高所登山で一番事故が多いのは下山中だ。
「やってみなければわからない」と思った。
しかし、こんな体で挑戦するなんて、山を冒涜している事になる。
登山は完全な体調で挑戦してこそ、登る意義がある。
色々と悩んだ挙句、撤退する事に決めた。
まぁ結局、自分自身で体調管理が出来なかったと言う事だ。
なんとも情けなく、自分自身が不甲斐ない。
ワラスでの肝炎以来に屈辱だ・・・。
悔しい気持ちを抑えつつ、シュラフに包まった。
【2005年09月 旅日記】
■イリマニ登山【1日目】

いよいよ、イリマニへ挑戦。
装備はペルーでの登山と全く同じ。
ただ、この時期のボリビアは冬になるため、防寒対策については万全を期さなければならない。
8時に旅行会社に行く。
今回のガイドは27歳の若者で、18歳からガイドをやっていると言う。
イリマニの麓のピナヤという村で生まれているため、イリマニについては詳しい。
9時に出発。
ラ・パスの郊外に出ると、道は未舗装路になり、九十九折れの道をひたすら走る。
約3時間かけて、ピナヤまで行く。
12時に標高3,900mのピナヤに到着。
目の前にはイリマニが聳えており、その容姿は何者も寄せ付けない雰囲気を漂わせている。
イリマニは一見、独立峰の様に見えるけれど、コルディエラ・レアルの一部である。
ガイドの実家があって、妹が現れた。
どうやら彼女がポーターをしてくれるようだ。
昼食を食べて、13時に出発。
まずは標高4,500mのベース・キャンプを目指す。
ここまでは、いつものようにブーロが荷物を運んでくれる。
ルートは迷う事は無く、ゆっくりと歩く。
2時間ぐらいで、イリマニの麓に位置する場所であるベース・キャンプに到着。
リャマが放牧されていて、長閑な風景だ。
ここから山頂までの標高差は約2,000mもあり、そんなにあるようには感じない。
しばらくしたら、女性2人、男性4人のパーティがやって来て、彼らはドイツ人だと言う。
その他、フランス人が1人で、合計3組のパーティのみだ。
やはり、今年はクレパスが多いと言う事で、皆、避けているのだろうか。
テントを張って、紅茶を飲みながらゆっくりする。
ガイドと周辺を散策すると、眼下には小さな村が点在している。
このような山奥にも村があるなんて驚きだ。
夕飯は炒めた牛肉とご飯だけど、ご飯がパサパサして美味くない。
まぁこの標高だからしょうがないので、我慢して腹に詰め込む。
日が暮れてから、風が吹き出した。
する事も無いので、ガイドも寝ると言い出した。
明日は9時に出発して、標高5,500mのハイ・キャンプを目指す。
約3時間の行程だ。
【2005年09月 旅日記】
■チャカルタヤ

イリマニ登山の前に高度順応も兼ねて、標高5,390mのチャカルタヤに行く事にした。
この山は、世界一最高所にあるスキー場として有名だ。
チャカルタヤ山頂直下から約300mぐらい滑る事が出来る。
リフトは無く、滑ったら自分の足で登って再び滑ると言う非常に納得のいかないスキー場である。
ラ・パスからは専用バスで行く。
道は途中から未舗装路になり、すごい九十九折れの道を走る。
揺られる事約1時間30分で標高5,200mの山小屋に到着。
山小屋の中を通り過ぎると登山道が現れる。
道は瓦礫がたくさんあるが、トレースはしっかりしているので全く迷う事はない。
まずは手前のピークを目指す。
自転車で標高4,000m以上を走ってきたので、歩いていても息苦しくない。
かなり良い調子で、高度順応はうまく出来ているようだ。
15分ぐらいで最初のピークに到着。
すぐに次のピークに向かう。
チャカルタヤは、2つのピークからなるようだ。
一旦下って、すぐに登り返す。
登り返すといっても、たかだか標高200mぐらいしかないので、ピクニック気分だ。
しかし、そこは標高5,000mの世界。
一度風が吹けば、一気に体感温度は下がる。
2つ目のピークに到着。
北には端正な容姿をしたワイナポトシ(標高6,088m)が天を突き、そして、南にはイリマニが鎮座している。
その下には、米粒を撒き散らしたようなラ・パスの街並みが広がっている。
北西に顔を向けると、神秘の湖ティティカカが滔々と水を湛え、西には延々とアルティプラノが続いている。
天気が良ければ、最高峰サハマも見えるらしく、まさに四方とも絶景で言葉がでない。
このような絶景ポイントに、わずかな時間で来られるとはお得である。
しばらくこの景色を満喫。
特に高山病の症状も無く、全てが万端。
これでイリマニへの挑戦への切符を手に入れた。
【2005年09月 旅日記】
■ボリビア登山

ボリビアでは、再び登山に挑戦。
ラ・パスの東側にコルディエラ・レアルが聳えている。
その最南端に位置するのが標高6,439mのイリマニである。
イリマニは北峰、中央峰、南峰の3つのピークから成り、南峰が最高峰となっていて、ボリビア第2の高峰である。
ここラ・パスには日本人宿は無いけれど、日本人の旅人が集まる宿がある。
そこの宿を拠点として旅行会社を探す。
宿の近くには、旅行会社が多い。
まずは1件目の旅行会社にイリマニ登山について尋ねる。
そしたら、なんとイリマニ登山を扱っていないと言う。
イリマニだけでなく、ボリビア最高峰のサハマも扱っていない。
その理由は、今年は例年よりも積雪が多く、しかもクレパスが多いと言う。
かなり危険なので、各旅行会社とも中止にしているらしい。
どうやら、ボリビアでの登山は無理そうだ。
しかし、諦めきれない。
翌日、再度旅行会社を回ってみた。
とある旅行会社で、イリマニに行けると言うではないか。
クレパスの事を尋ねると、プロのガイドを雇えば行けると言う。
ガイドが良い、とそれなりの値段になるのは当たり前。
値段を尋ねると、予想していたよりは安かった。
ここの会社は、一昨年ペルーで一緒に登った友達も使っていたので信頼もありそうだ。
その友人は、素人ながらもサハマに登頂している。
旅行会社のオーナーもガイドも親切で即契約。
自転車で既に標高4,000mのアンデスをクリアしてきているので、高度順応はバッチリだ。
しかし、念には念を入れて、イリマニ登山の前に一発5,000m辺りにでも行った方が良い。
その高度順応には、持って来いの山がある。
チャカルタヤという標高5,390mの山がラ・パスから約1時間30分で行ける。
ここは各旅行会社がツアーを取り扱っているので、簡単に行く事が出来る。
まずはチャカルタヤに行ってから、イリマニに行く事にした。
【2005年09月 旅日記】
■再び

16カ国目のボリビアに入国。
一路、首都ラ・パスを目指す。
ここは標高3,660mで世界で最高所に位置する首都だ。
ラ・パスの容姿を表す時、「擂鉢状にある」と形容され、下に行けば行くほど高層ビル群が乱立している。
擂鉢の「ふち」にあたる場所を「エル・アルト」と呼び、標高は4,100m。
このエル・アルトには主に貧困層が住んでいるが、ここからのラ・パスの街並みがすごく綺麗。
目の前には標高6,439mのイリマニが聳えていて、ここから見る夜景も絶景だ。
「ふち」からラ・パスの中心地までは、距離にして12kmで標高500m下る。
ラ・パスを出発する時、これを再び登り返すのはかなり苦痛だ。
下れば下るほど、富裕層が住む地域となる。
ここラ・パスは既に訪れている。
今回は、目の前に聳え立つイリマニに挑戦する。
果たして吉とでるか凶と出るかは神のみぞ知る・・・。
【2005年09月 旅日記】
■いよいよ

長かったペルーともサヨナラ。
振り返るとペルーでは本当についていなかった。
思い出すだけでもテンションが下がる。
2004年の7月に順調に見えた旅もトラブルが発生。
ペルー北部で自転車が故障。
走行不能に陥り、なんとかバスで首都リマに移動。
日本からパーツを送ってる間に登山をしようと思ったら、なんとA型肝炎に羅漢し、800ドルが宙に舞った。
同年10月。
自転車も身体も復活し、出発しようとしたらアンデス地域が既に雨季に突入。
色々と考えた挙句、来年の乾季まで待つ事に。
そして、ペルーの滞在日数が終わるのでボリビアへ。
ひょんな事から、オキナワ移住地で2005年5月まで働く事に。
6月には再びペルーに戻り、去年肝炎で倒れて登れなかった山に挑戦、無事に登頂し、リベンジ達成。
約9ヶ月振りに自転車の旅を再開し、ナスカ、クスコ、プーノを経て、ボリビアに。
やっと16カ国目に突入。
ボリビアは、どんな旅になるんだろう。
【2005年09月 旅日記】
■魚

ティティカカ湖の名物料理と言えば、トルーチャ(鱒)料理だ。
ペルーの山岳部でもトルーチャを獲る事ができるが、ティティカカ湖のトルーチャの大きさは半端ではない。
しかも、肉厚で脂がたくさんで美味く、基本的には揚げたトルーチャを塩とレモンで食べる。
トルーチャの他には、パサパサしたご飯とサラダが付いて、これがなんと約5ソル(約180円)で食べる事が出来る。
ボリビアのラ・パスにある日本食レストランでは、このトルーチャを寿司で食べさせてくれる。
脂がたくさん乗っているで、マグロのトロのような感じでかなり美味く、値段は9個で36ソル(約450円)。
魚好きの日本人にとっては、たまらない料理だ。
ただ残念なのが、全てのトルーチャが天然モノではなくて、養殖だという事。
この養殖業に日本のJICAが携わっているらしい。
1月から4月までは禁漁となっているため、行く時期には注意が必要だ。
【2005年09月 旅日記】
■神秘の湖

ペルーとボリビアにまたがる神秘の湖、その名を「ティティカカ湖」と言う。
ケチュア語でチチが「石」、カカが「プーマ」を意味している。
インカ帝国の初代皇帝マンコ・カパックが妹と一緒に降臨したと言う伝説がある。
降臨した場所はボリビア側にある「太陽の島」で、現在ここはトレッキングができる観光地である。
汽船が航行する湖としては、世界最高所に位置する。
標高3,820mに位置しており、富士山よりも高いと言うのが驚きだ。
6月から9月の乾季には、どこまでも青い空が広がる。
その空の青を反映して、湖面も青く染まり、まさに「神秘の湖」と言う言葉が良く似合う。
【2005年09月 旅日記】
■写真屋

写真はフリアカのある通り。
何故か、写真屋がたくさんあった。
黄色い看板に赤文字で「FOTO」と書いてある。
こんなに写真を現像する人が多いのだろうか?
フリアカは、とにかくごちゃごちゃした街だった。
【2005年09月 旅日記】
■再びアンデス越え

クスコからプーノまでは約450km。
途中に標高4,300mの峠が一つ構えている。
しかし、クスコが標高3,300m、プーノが標高3,800mなので、それほどは苦にならないはずだ。
サイクリスト南下組は、走るペースが違うので別々に走る事に。
まずは、クスコから約40km先にある標高3,100mのウルコスへ。
初日なので短めにしておく。
道も綺麗で特に苦にはならない。
ただ、クスコでタイヤを1.5インチから1.9インチに交換した。
そのため、多少ペダリングに抵抗が感じられる。
ボリビアのダートに備えて、今のうちに慣れておいた方がいい。
峠の手間にあるシクアニで一泊。
宿代は5ソル(約180円)で、今までで一番安い宿だ。
さすがに、200円以下の宿は設備もそれなりだ。
そして、翌日は峠への挑戦。
標高3,700mのシクアニを出発。
ここから徐々に標高を上げていく。
標高4,000mを越えた辺りに温泉があった。
情報では、それほど湯温は熱くないという事だったのでスルー。
時間もまだ午前9時だったので、入らなかった。
傾斜は緩いけれど、ペダリングがかなり重い。
なんでだろう?まだ足が出来ていないのか?
旅を再開して、まだ1,500kmぐらいしか走っていないからか。
なんとか気合を入れてペダリングし続け、やっとこ標高4,338mのラ・ラヤ峠に到着。
このクスコからプーノのルートは道路と平行して線路が走っていて、列車で旅をする事が出来る。
景色が綺麗なので、観光客が多い。
日本のテレビで放映されている「世界の車窓より」の番組で、第3位に選ばれたとか。
確かに、峠付近には雪山が並んでいて眺めが良い。
峠には駅があって、列車の客が降りて、お土産屋を見ている。
峠からは、ひたすらパンパ(平原)になり、傾斜は緩やかな下り。
標高3,900mにこのような平原があるなんて信じられない。
久しぶりの平らなのでかっとぶ。
ちょうど貨車を積んだ列車が来たので写真を撮る。
南米では列車は珍しい。
移動はほとんどがバスになってしまうからだ。
そして、フリアカという街に到着。
ペルーではアレキパについで、美女が多いという噂の街だ。
感想は「えっ?」といった感じ。
この街は商業都市で、色々な問屋がある。
だから、街中も雑然として、ごちゃごちゃした感じがする。
何故か、写真屋がたくさんあった。
余談ではあるけれど、ペルーには偽コインが多い。
その偽コインを造る工場が、ここフリアカにあると言う。
しかも、偽コインがkg単位で売られているとか。
そして、ティティカカ湖で有名なプーノに到着。
どこまでも青い空、そして海のように大きい湖面は青空を反映して青い。
長かったペルーとも別れを告げて、これからはいよいよボリビアへ。
【2005年09月 旅日記】
■出発

いよいよクスコを出発。
サイクリストが5人いたので、みんなで日を合わせて出発する事にした。
どうせならと、中央広場にある噴水の前で記念撮影をしようという事になった。
出発当日、仕度して中央広場へ。
1台の自転車でさえ人目を引くのに、5台もあるから、周囲の人々は、皆、振り向いている。
注目を浴びて、正直ちょっと気持ち良かったかな。
サイクリストだけでなく、宿のオーナー、同宿の人達とも一緒に記念撮影。
入れ替わり立ち替わり、カメラで撮っていった。
行き交う人も興味本位で写真を撮っていく。
撮影がやっと終わり、いよいよ出発。
握手を交わして、別れを告げる。
出会いあれば、別れあり。
それぞれの目的の向けて、ペダルをこぎ始めた。
【2005年09月 旅日記】
■反インカ帝国

インカ帝国
初代皇帝マンコ・カパックが、汽船が航行する湖としては世界最高所のティティカカ湖にある太陽の島に降臨。
今から400〜600年前、南米大陸の北はコロンビアから南はチリまでの一大帝国を造り上げた。
首都クスコを中心として、南米一栄華な帝国として繁栄したが、1500年後半スペイン軍の侵略を受けてあえなく滅亡。
現在も残るマチュ・ピチュは当時の資料などが無い為、今尚、謎が多い神秘の遺跡として世界中に知れ渡っている。
とまぁ、ガイドブックには、こんな感じでインカ帝国について語られているかもしれない。
さて、自分が思うインカ帝国について書いてみよう。
かなり毒舌で書いていきますので、苦情などの問い合わせは受け付けません。あしからず。
1.時代背景について
まず、インカ帝国が栄えた時代が1400〜1600年ぐらい。
日本で言えば、安土桃山時代〜戦国時代。
折りしも織田信長、豊臣秀吉、徳川家康などの英雄が覇を競い合っていた。
そう考えると、インカ帝国はあまり古くない文明だと言える。
2.栄えたインカ文明について
インカの人々は「文字」を持たなかったと言う。
その為、遺跡などには壁画や文字が書かれていなかった為、謎が多く、解読されない事が多い。
こう聞くと、さも神秘を感じるが、1500年代と言えば日本ですら文字はあり、その遥か1000年前の飛鳥時代に文字はあった。
エジプト文明に至っては、当時でも文字があったと言われている。
1500年で文字が無かったと言うのは正直、その文明が「低脳」であるとしかいいようがない。
ガイドブックには「高度な文明」と書かれているが、果たして本当に高度だったのか?
そして、「車輪」が無いと言われている。
インカの人々は「車輪」を使って、資材を運搬したりする能力が無かったという。
昔の日本のように「飛脚」というのが存在し、その飛脚が情報の伝達する為に南米大陸を駆け回っていた。
更に、彼らインカ人は重さ何トンという石を車輪を使わず運び上げたという。
再び、日本文化との比較で申し訳ないが、日本ですら当時は車輪はあったはずだ。
エジプト文明のピラミッドの石を運ぶときですら、梃子の原理を利用したり、丸太を下に敷いて石を運んでいた。
この時代において、車輪が無いと言うのは「低脳」以外なにものでもない。
3.スペイン軍に滅ぼされる。
南米一巨大な勢力を誇ったインカ帝国も、高度な知能を持ったスペイン人には弱かった。
スペイン軍の勢力は、僅か200人弱。
そんな少ない人数にやられてしまうほどのインカ帝国。
実際はスペイン軍が侵略した当時、インカ帝国内は飢饉や王位継承の問題などで混乱の渦に陥っていた。
そんな時にスペイン軍の侵略を受けてしまったと言われている。
不運な事もあって、滅亡してしまったインカ帝国。
しかし、何故たった200人弱の連中にも抵抗できなかったのか?
なんて最弱な武力、と思うかもしれないが、インカ帝国には昔からこういう言い伝えがあった。
「帝国内が混乱に陥った時、肌の白い人間が現れ、帝国を救ってくれる」と。
インカの人々は、侵略してきた「スペイン人」を、その「肌の白い人間」と思い込んでしまったのだ。
彼らがまさに混乱を救ってくれる「神」的存在だったのだ。
だから抵抗する事無く、彼らにあっけなく滅ぼされてしまった。
はたして、機転が利いた高等な人種だったのか???
4.哀れな最期の皇帝
スペイン軍の侵略を受け、次々と殺されていくインカ人。
当時の皇帝は、風呂に入っている時に捕まり、首を刎ねられたというマヌケ振り。
その風呂はペルー北部カハマルカという町に「バニョ・デル・インカ(インカの風呂)」として、遺跡として残っている。
帝国内が混乱しているのに、風呂に入っているなんて・・・。
しかも皇帝は、首を刎ねられる時に、スペイン人にこう懇願したという。
「築き上げた黄金を差し出すから、私の首は刎ねないでくれ」と、なんとも皇帝としてあるまじき行為。
スペイン人は黄金の場所を聞きだした後、皇帝の首を刎ねはのは言うまでも無い。
そんな皇帝が君臨していたインカ帝国って・・・???
5.マチュピチュについて
インカ帝国がこんな感じだったので、マチュピチュがそれほどすごいのかというと疑問だ。
@場所について
山深い切り立った断崖絶壁の山の上に、その遺跡は存在する。
マチュピチュはインカ帝国の首都クスコから約100kmの場所に位置しており、クスコからは道が無く、列車で行く以外方法は無い。
そう考えるとマチュピチュはインカ帝国の「最後の砦」として造られたのではないか。
「最後の砦」であれば、そう簡単に侵入されないような場所で無ければならない。
周囲は断崖絶壁の山々。
そういう地形で「山の上」に造ろうと考えるのは、人間誰でも思いつきそう。
だから、別に山の上にあっても不思議とは思わない。
A遺跡の石組みについて
重さ何トンもある石がどうやって、山の上に?
さっき書いたように、所詮人間が集まればなんでもできる。
まして、人海戦術で取り組めば、何トンだろうが運べるはずだ。
まして南米一大帝国のインカ帝国だから、人間だけは、たくさんいたはずだ。
そう考えると別に不思議は感じない。
B当時の生活
1500年代にも関わらず、家は石組みで屋根は藁葺。
日本では、大阪城や安土城などの絢爛豪華な建築様式が存在しているのに、今時、藁葺き?
現在のペルーでもそういう家を見かけるけど・・・?
マチュピチュ内部にも神殿らしきものがあるようだけど、ただの石。(行った人の話では)
この時代で神殿が「石」とは・・・。
まぁ宗教的なモノがあったとしても・・・。
*
以上の事から、インカ帝国及びマチュピチュの価値が、それほどすごくないという事が理解できる。
日本ではマチュピチュが南米で最大の観光地と思われているが、実際にこっちにいるとそうではない。
長期旅行者に「南米で良かった場所」を尋ねると、「ウユニ塩湖」、「ギアナ高地」、「イグアスの滝」と答える。
自然的モノと文化的モノは比較にはならないけれど、誰もマチュピチュが良かったと言う人はいない。
まぁマチュピチュの遺跡の中にある山に登って、眺めがよかったという程度。
遺跡自体は、「ただの石・・・」という人がほとんどだ。
日本からのツアーでは、マチュピチュが約50万円もすると言う。
そんな価値も無いモノに金をかける人が信じられない。
遺跡が三度の飯よりも大好きという人だったらわかるけど。
「人それぞれ」と言ってしまったら、元も子もないので言わない事にしよう。
値段について言えば、マチュピチュに行くとなると恐ろしく高い。
入場料は25ドルで、学生証を使えば半額にはなる。
クスコからの列車は一番安くで60ドル、一番高いので200ドルする。
では、ここで物価の比較をしてみよう。
まず前提として、ペルーの安宿は大体5ドルぐらいで、日本の安宿は大体30ドル(約3,000円)ぐらい。
そういう物価水準の国という事を頭に入れておこう。
・入場料について
マチュピチュ入場料は25ドル。
ペルーで言えば、安宿の平均値段の5倍。
日本で言うと、15,000円ぐらいの入場料になる。
・交通費について。
クスコからマチュピチュは、100kmぐらいの距離で60〜200ドル。
日本だと、神奈川の実家から川崎までが50kmで10ドルで、往復で約20ドル(約2,000円)する。
ペルーで言えば、安宿の平均値段の12〜40倍、日本で言えば、36,000〜120,000円!!
誰が120,000円の交通費、15,000円の入場料を払って、遊びに行く奴なんぞおるか??
と、非常にわかり難い例えだが、それほどマチュピチュは高い。
現地ペルー人ですら行けるのか?と思えるほどだ。
安く行く方法として、長期旅行者がとる手段であるが、電車代を節約するために約30kmの線路を歩くという。
なんで石コロを見に行くだけなのに、7時間もあるかなければいけないんだ!!!
歩くのは嫌いではないけど、そんなに価値はあるのか!?
と以上、マチュピチュに行かない理由でした。
もう一度言いますが、苦情などの問い合わせは受け付けません。あしからず。
【写真説明】
有名な「インカの石組み」で、隙間には剃刀の刃が入らないほど、精巧に作られていると言う。
有名な「12角の石」の裏側には「13角の石」があり、なんでも「14角」もあるとか。
まぁここまでくれば、何角あろうがどうでもいいけど・・・。
【2005年09月 旅日記】
■4人目


名前は「矢島夫妻」。
南米はエクアドルの首都キトに入り、アルゼンチンのブエノス・アイレスを目指す。
彼らは1980年代にアラスカとカナダを走行し、その後アジア、中米なども走行。
まだ旅がしづらい当時で「普通」に旅をしていた筋金入りのサイクリストで、本も出版している。
旦那は少し「宮崎駿監督」に似ているダンディー親父、嫁さんは笑うと目が無くなる恰幅で元気の良いおばちゃん。
旦那の事を「キミ」と呼ぶ中睦まじい?夫婦。
日本食には目がなくて、日本食レストランがあれば、足繁く通い、キッチンの無い宿でも豆腐を買ってきてしまうほど。
二人ともトレーラーを引っ張っている為、荷物はなんでもかんでも積んでいる。
チタン製の中華鍋、でかい鍋がそのままおける電熱コイル、洗濯を干す折り畳み式のハサミ(?)などなど。
旦那さんは釣りが好きで釣竿の他に小物もたくさん、藪漕ぎをする訳でもないのに何故か「鉈」や「鋸」も持参。
なんでも中華鍋は、朝起きて顔を洗うのにちょうど良いとか。
ガイドブックは「地球の歩き方」以外にも「ロンリー・プラネット」も持っている。
荷物の重さは、男性が一人で抱えても持ち上がらない程。
ドラえもんの4次元ポケットと同じで、なんでもでてくる。
今日も日本食を求めて、ペダルをこぐ。
【2005年09月 旅日記】
■3人目

本名「青井慎二郎」、自他称「チャリダー慎」。
愛知県出身、その後は仕事で北海道へ。
彼とは、2年前からメールのやり取りをしていた。
ここペルーのクスコで出会う事ができた。
彼はオーストラリアを縦横断、その後は東南アジアを走行、そして、中国を走り終え、一時帰国。
そして、冬のアラスカを走り、北中米縦断を完遂し、コスタリカからチリに飛び、ベスト・シーズンのパタゴニアを狙う。
その後は、最南端からエクアドルのキトを目指して北上。
アラスカのダルトン・ハイウェイ、パタゴニアのルタ40、ボリビアの宝石の道などの難ルートをことごとくクリア。
日本人でも珍しいトレーラーをひきつつ、オーストラリアの楽器ディジュリデゥをも弾く。
アルコールがエンジンの飲兵衛サイクリスト。
今日もワインを携帯しつつ、ペダルをこぐ。
【2005年09月 旅日記】
■2人目

通称「チャリダーアキ」。
彼は筋金入りのトラベラー。
まずは若い時、ユーラシア大陸をバスで横断、その後、ニュージーランドをヒッチハイクで一周。
そして、カナダを自転車で横断。
その後、オーストラリアを自転車で一周。
シドニーからメキシコ・シティに飛び、そこから中南米を縦断を開始。
一路、南米最南端ウシュアイアを目指す。
身長180cm近くありながら、体重が60kgを切っている珍しいサイクリスト。
ワシントン条約でも絶滅危惧種に指定されている27インチタイヤの自転車をこよなく愛する。
今時、27インチなんて使っている人はまずいない!
27インチのタイヤをゲットすることができるかどうか、頭を悩ます日々が続く。
【2005年09月 旅日記】
■1人目

本名「阿部雅龍」、自称「夢を追う男」。
秋田出身、大学を一時休学して、自転車で南米縦断に挑戦中の学生。
日本からエクアドルの首都キトに入り、赤道から南米最南端のウシュアイアを目指す。
日本人サイクリストとは見えない金髪でペダルをこぐ。
驚いたのが、今回の旅が初めての海外。
しかも、それが自転車!更にいきなりスペイン語圏で、その事を話すと、彼はいつもこう言う。
「まぁ、なんとかなりますよ」と。
秋田出身のせいか、標高3,000m以上でも、何故かいつもタンクトップで、どうやら人より体感温度が少し高いらしい。
そして、ケーキを丸ごと一人で食べてしまう程の甘いモノ好きで、どうやら人より味覚が違うらしい。
だから人は彼の事をこう呼ぶ。
「甘党のエスキモー」と。
【2005年09月 旅日記】