■久しぶり

こちらは約10ヶ月振りのワラスから。
再び登山をするために、戻ってきた。
さすがに乾季という事だけあって、空の青みが凄い。
この色を自分が求めていたので、やはり来てよかった。
ワラスの標高は3,000m。
標高0mのリマから、バスでダイレクトで来た為、多少高山病に罹っている。
それに標高が高いため、すごく乾燥していて、喉が渇く。
鼻の穴の中の粘膜も乾燥しているので、鼻血まじりの様な鼻クソが出る。
ほじっているのではなくて、鼻をかんだ時に見れる。
食事の方?失礼しました。
去年は、ここでA型肝炎に罹りダウンし、山の費用800ドルが宙に舞った。
あれから、ボリビアで働いていたので、運動という運動は全くしてない。
恐らく、足腰の筋肉は弱っていると思われる。
気持ちでは、若い時のようにガシガシ登れるだろうと思うんだけど、なんせ身体がついていかない。
みんな、そうなっていくんだろうなぁとしみじみ感じてしまう。
ピッコロ大魔王が「永遠の命と若さ」を手に入れたい気持ちがよくわかる。
今回行く場所は登山ではなくて、トレッキングに類する。
高度順応も兼ねて、ラグナ・チュルプ(チュルプ湖)を見に行く事にした。
この湖は標高4,450mに位置しているので、高度順応にはもってこいだ。
実は、ここには去年行こうと考えていた。
当日の朝、だるくなって肝炎が始まってしまい、行く事が出来なかったイワク付きの場所だ。
今年はバスの発着場所や所要時間などを確認して、行動食も買って、荷物も体調も準備万端。
行動食はパンにハムとチーズをはさんで、マヨネーズとケッチャプで味付けした。
これとビスケットとチョコ、水は2Lで足りるだろう。
歩く時間は約7時間なので、今までの経験上、2Lあれば十分だろう。
そして、シャワーを浴びていると、なんだか肩が重い。
肝炎は一度罹ったら、二度とならないので、肝炎ではないだろう。
どうしたんだ??
ワラスは、夜になると流石に冷え込む。
氷点下にはならないが、気温5度ぐらいだろう。
まさか、風邪・・・?なんだか最近、体が弱くなってきた。
それに、乾燥しているからか喉が痛い。
なんだか寒気がちょっとする。
こういう時には寝るに限ると思い、深夜0時にベッドに入って寝る。
翌日7時半に起き、ちょっとだるいが、それでも出発する事に。
宿から歩いて5分の場所に、バスの発着所がある。
まずは、バスで「ユパ」を目指す。
ワラスの郊外に出ると、道路は未舗装路になり、その道路状況は最悪だ。
ガレガレの道を乗客10人を乗せて、ハイエースは突き進む。
エンコしないのが不思議なぐらいで、ドライバーはさぞかし巧いのだろう。
ワラスから30分で、標高3,600mのユパに到着。
自分の他に欧米人の男性が6名。
よくわからない言葉を話している。
ユパからは、まずは「ピテック」を目指す。
登山道はダラダラとした緩く、登って行く。
自分の一番嫌いなパターンだ。
男性6人組を先に行かせて、ゆっくりと歩く。
ダラダラなので、標高はたいして上がらない。
時間通り1時間半で、標高3,800mのピテックに到着。
ここからラグナ・チュルプまでは、所要時間2時間半。
遥か彼方には、標高5,400mのチュルプが聳えていて、その麓に湖があるのだろう。
チュルプの氷河から溶け出した水で、その湖は造られていると言う。
ピテックからいきなり直登になった。
去年の10月のアレキパでの「エル・ミスティ登山」以来の登りだ。
登りになってから、6人組の男性たちは、徐々に遅れだす者も出始めた。
ピテックには欧米人のカップルもいた。
さすが欧米人、こういうアウトドアは好きだ。
旅している日本人は多いけど、アウトドアやる日本人は極端に少ない。
ぐんぐんと標高を稼ぎ、チュルプが徐々に近づいてくる。
手前の山を越せば、ラグナ・チュルプだろうとタカをくくっていた。
そしたら、なんと、まだまだ先に道が続いている・・・。
湖の標高は4,440mで、自分の位置はまだ4,000mなのでまだまだ。
渓谷の中に入り、右手の遥か下に川が流れている。
一歩一歩が重くなってきた。
目の前には、大きな岩が聳えていて、その奥にチュルプ湖があるはず。
どうやら、あの岩場を越えないと駄目なようだ。
本当に、今日中に到着するのか??
ピテックを出て、1時間半かけて、やっとこ岩場を越えた。
よし!湖!と思ったのも束の間、また目の前には岩壁が聳えている。
むむむ、登山で一番嫌なパターンだ。
岩場の間から滝が流れていて、滝沿いにどうやら登るようだ。
おいおい岩登り??聞いてないぞ。
もうトレッキングの部類ではなく、完璧に登山だ。
ここの標高が4,200m。
あと少しと思いつつも、足が重い!!!
正直もう帰ろうかと思った。
ここまで来て、帰るのも悔しいので、頑張って足を前に出す。
滝の横を直登し、岩場だけど、一応トレースがあるので、なんとか歩ける。
しかし、滑ったら怪我だけじゃすまされない。
ユパを出発して、所要時間3時間20分。
やっとラグナ・チュルプに到着。
本来は、4時間ペースだから良しとしよう。
ラグナ・チュルプは、正面にチュルプを擁し、その周囲は岩山に囲まれている。
まさに閉ざされた世界で、自らの足で登ってきた者のみ見る事ができる。
途中で辞めなくて良かった、と感じる。
湖水の色は緑色をしており、何処までも透き通っている。
紺碧の空、チュルプの氷河、そしてラグナ・チュルプの水。
青と白と緑が、絶妙なハーモニーを醸し出している。
うーん、やっぱり山はいい。
岩場に座って、チュルプと湖を見ながら、太陽の下、サンドイッチを食べる。
その美味さは、どんなに高価なフランス料理や懐石料理にも及ばない。
少し遅れて、6人組も到着。
自分たち以外にも数組の欧米人が、既にランチを楽しんでいる。
風はあるが、日差しが強いので寒くない。
体調は本調子ではないけれど、なんとか歩けた。
正直、昨日の夜は、もう山なんてどうてもいい!と思った。
かなり、諦めモードに入っていたけど、着てよかった。
1時間ぐらい、ゆっくりして下山。
実は下山が大嫌いで、登りの方が好き。
下山のペースは本当に遅く、他の登山者にどんどん抜かれる。
よくガイドに「登りは早いのにねぇ・・・」と言われる。
結局、ユパまでは3時間もかかった。
登りの時間と、たいして変わらない。
ユパに着いたのは16時で、ワラス行きの最終バスは17時。
6人組は16時30分ぐらいに到着。
お互い疲れた・・・という顔をする。
不思議に思ったのが、下っている時、標高4,100m辺りから頭痛がした。
普通は、登っている時にだんだん痛くなり、下山すると痛く無くなるのに。
高所登山の場合はいつもそうで、エクアドルでのコトパクシ、アレキパでのミスティでも、そうだった。
結局、ワラスには17時半に到着。
もう足が棒のように痛く、かなり疲れた。
「しょうがないか、ブランクがあるから」と再び言い訳。
おかげで泥の様に眠る事ができるだろう・・・。
【2005年05月 旅日記】
■3年という節目
今月の5月21日で、出国してから、ちょうど3年が経過した。
まず始めにオーストラリアに入った。
砂に悩まされた最北端へのケープ・ヨーク。
エアーズロックの頂上からの眺めは360度の地平線に、人間の小ささを感じた。
西部では、毎日気温50度の中を走り続け、まさに「駆け抜けた」といった感じだった。
そして、ニュージーランドへ。
オーストラリアの大自然を体験した後だったので、その小ささに唖然。
「美しい自然」が「造られた自然」に感じた。
ここも一周しようと考えていたが、急遽予定を変更して縦断で終え、すぐに北米に。
当初の予定では、ニュージーランドからインドネシアに渡り、アジアに入ろうと思っていた。
そして、ヨーロッパかアフリカへと。
しかし、急遽、予定変更。
英語圏に約1年も滞在していたにも関わらず、英語がダメだった。
どうやら、ヒヤリングがダメらしい。
だから、もうちょっと英語圏に居たいと考え、ニュージーランドから北米に飛んだ。
ついに、北米大陸に上陸。
アメリカ合衆国のビザの都合上、カナダのバンクーバーへ。
北部ホワイト・ホースから自転車の旅を開始し、一路、北上してアラスカを目指す。
夢にまで見たアラスカ。
アンカレッジから本格的に南下を始めた。
北米最高峰のマッキンリーを見た時は、目頭が熱くなった。
カナダ、アメリカ合衆国本土のロッキー山脈沿いを南下。
日々、大自然との出会いだった。
そして、英語圏にサヨナラを告げ、スペイン語圏へ。
メキシコから以南はスペイン語。
初めは手間取ったが、徐々に単語も覚え、地元の人たちと会話ができるようになった。
メキシコは人々も暖かく、多くの人に助けられた。
メキシコシ・ティでは、2回目の年越し。
インフルエンザが蔓延し、自分も若干、風邪にかかった。
「旅」へのテンションは少し下がったが、ホーム・シックではなかった。
年が明けて、中米を目指す。
中米は蒸し暑く、人々との交流も殆ど無く、ただひたすら走っていた。
そして、小学校の時、授業で学んだパナマ運河へ。
オセアニア、北米、中米に続く第4ラウンドの南米に突入。
人々が、最高に親切だったコロンビア。
何故、ここまで?と思えるほど、人々の温もりを感じた。
毎日、現地の人と会話をしたので、一気にスペイン語が上達した。
エクアドルでは、人生で初めて高所登山に挑戦。
標高5,897mのコトパクシに無事登頂。
アンデスを肌で感じた。
そして、ペルーへ入国し、旅は無事に続いていたかに見えた。
自転車の大トラブル、そして、追い討ちをかけるかのようにA型肝炎でダウン。
自転車の修理、体調の復活に約2ヶ月間の足止め。
今後の予定を考えたら、アンデス山中は雨季に突入してしまうので、悩んだ挙句、次の乾季まで待つ事に。
そして、ボリビアの日本人移住地「オキナワ」で入植50周年の記念誌の仕事に従事。
海外で、しかも日系社会で約5ヶ月間の勤務。
「紅白歌合戦」を見ながら、3回目の年越。
そして、移住地での仕事を終え、現在は再びペルーに。
今までの3年間、本当に色々とあり、一言では表す事ができない。
自分一人の力では、ここまで辿り着く事はできなかっただろう。
親を始め、友人知人、旅先で出会った人々のおかげだ。
「がんばれ!」ってメールをくれる人もいる。
この一通のメールが「よし、やるか!」という気にさせてくれる。
こういった人々のおかげで、今の自分が存在している。
そして、いよいよアンデスが乾季に突入し、自転車の旅は7月から始める予定。
旅をしていると「3の数字の倍数の時に何かしら起こる」という事を耳にする。
3ヶ月目、6ヶ月目、9ヶ月目、12ヶ月目(1年目)、3年目、6年目・・・果たして何かが起こるのだろうか?
3年経過してまだペルー。
うーむ、この先が思いやられる・・・・。
まぁ、急ぐ旅でもないし、ゆっくり自分のペースで行きますか。
そう時間は死ぬまであるんだから。
【2005年05月 旅日記】
■再び

半年振りのアレキパからです。
標高2,300mなので、高山病も無く快適。
プーノからは、バスで10時間掛けて到着。
本来は7時間で到着するんだけど、メイン道路が閉鎖されているから裏道を使ったため。
閉鎖されている理由は、恐らくストライキなようなもの。
ボリビアやペルーでは、しばしばこういう事が起こる。
ボリビアの首都ラ・パスでも、労働者が「賃金アゲロ!」とデモ行進をしていた。
その裏道も未舗装路のガタガタ道で車内は埃だらけ。
座席も小さいので、隣に座っている人に触れる。
バス旅には、ほとほと嫌になった。
サンタ・クルスからラ・パスのバスの中で寝ていたら、体に掛けていたダウンジャケットが盗まれた。
恐らく、途中下車の人間がパクったのだろう。
古着市で15ドルで買ったモノだったからいいんだけど。
こんなバス旅とも、後少しでサヨナラなので、我慢我慢。
さて、アレキパに来た理由は、リマへの経由という事もあった。
しかし、半年前にチャチャニ登山に失敗したので、再度挑戦しようかなと思ったから。
もし再挑戦できれば良いんだけど。
前回は、ガイドのミスで「雪は無いから、装備はいらない」という事で山頂に向かった。
しかし、雪がたくさんあって登れないという事になった。
で、その時ガイド曰く、もう一度挑戦するなら安くするという事なので、値段によっては登ろうと考えていた。
で、到着して早速、旅行会社に行って、訳を話す。
夕方にガイドと会って話す。
しかし、やはり安くはできないよう。
「やはり」
まぁ、所詮こんなものだろう。
期待はしていないかったからOK。
これでリマに行く事ができる。
さて、今日の夜から、再び15時間かけて、夜行バスでリマへ向かう。
また、地獄の時間が始まるのかと思うと憂鬱。
あと少しの辛抱だ。
【2005年05月 旅日記】
■I'm free!!

写真は、オキナワ移住地で働いて文化会館で、入植40周年を記念して造られた。
オキナワ移住地で働き始めて早5ヶ月。
ようやく仕事が終わり、定住生活から移住生活へ。
結局、記念誌の完成を見ることができなかった。
流石に5ヶ月も居ると、去る時はさみしいもの。
しかし、これも旅の醍醐味。
「出会いあれば別れあり、別れあれば出会いあり」
4月末で仕事を終え、一路ラ・パスへ。
やっぱり、定住より移住の方が楽しいですな。
だから、オキナワ移住地の人たちも、日本から移住してきたのかな?と思ってしまう。
今はペルーのプーノに居ます。
標高3,800mはさすがに寒い。
今まで標高500mの所から一気に来たから、ちっと高山病に。
鼻の中もすごい乾燥している。
寝ていても、喉が乾いて目が覚める。
水分補給は必須だ。
気温も夜は5度ぐらいまで下がる。
昨日の部屋の中は12度ぐらいだった。
これから冬になるので、もっと寒くなるんだろう・・・。
今後はアレキパへ。
以前登れなかったチャチャニに登ろうかな、と。
前のガイドが次回は安くすると言っていたからな。
けど半年も体動かしていないから、大丈夫かな。
移住地では、週末にプール、仕事が終わってジョギングをしていたけど、なぜか体重が出国前に戻ってしまった。
73kg(出国前)→63kg(旅行中の最低)→72kg(現在)。
世界を旅した人はみんな帰国後、ブクブクしてるんだよなぁ。
対策を考えておいたほうがいいかも。
やはり適度な運動は必要ですな。
【2005年05月 旅日記】