■オキナワ移住地

前にも書いたが、ここボリビアのオキナワ移住地で働き始めて、早4ヶ月が経過した。
仕事の内容が、50周年記念誌の作成という事だけあって、このオキナワ移住地の歴史を覚えてしまった。
ここでは、ちょっとオキナワ移住地について、書いてみるこ事にしよう。
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ここオキナワ移住地は、その名前の通り、日本の沖縄県からの移住者で造られた村である。
現在日系人は約800人、ボリビア人が約10,000人ほど住んでいる。
日系人の中でも、沖縄県出身が95%を占め、非常に沖縄県人の血が濃い。
現在では三世まで生まれていて、その歴史は長い。
この地にたどり着いた時は、ボリビア人はいなかったと言う。
しかし、現在では、ボリビア人の働き口もあると言う事で、ボリビア人が各地から移り住んでいる。
逆に移住者子弟が日本への出稼ぎなどで村を離れてしまい、日本人は減少していると言う。
ボリビアの第2の都市サンタ・クルスから乗合タクシーで約50分かけて、北に位置するモンテーロという町へ行く。
そして、再びタクシーの乗り換え、ここから更に40分かけて、東へ行くとオキナワ第1移住地に到着する。
距離にして約100kmぐらいで、サンタ・クルスから見て北東に位置する。
そして、第1移住地から20km南に第2移住地が位置している。
そこから、更に18km南に行くと、第3移住地に到着する。
オキナワ移住地は、第1から第3の3つの地域で構成されている。
この地に初めて日本からの移住者が移住したのは、今から50年前の1954年に遡る。
沖縄決戦の敗北によって、アメリカ合衆国に支配された沖縄。
その後、アメリカ合衆国の移民政策によって、南米への移民が始まった。
ブラジルを始め、ペルー、アルゼンチン、パラグアイ等へ移民する人々。
当時、琉球王国政府発行のパスポートを持参して、沖縄県の那覇港を出発した。
50日の航海を続けて、インド洋を経て、西回りでブラジルのサントス港へ入った。
そして、サントスから移民列車に乗り、更に一週間かけてボリビアにやってきた。
当時は、移住を希望する人が多く、面接をして選考するほどだった。
焦土と化した沖縄の将来を期待できないのか、それとも新天地ボリビアで一から出直すという気持ちがあったのだろうか。
それは人それぞれだっただろう。
中には、家族や友達の反対を押し切ってまで、移民した人もいた。
何をそこまでして、ボリビアへの移民を決めさせたのであろうか。
しかし、那覇港を出向する時は、やはり期待よりも不安の方が勝っていたと言う。
そして、移民列車が到着したのは、サンタ・クルスから約50km東のパイロン駅という場所だった。
駅という名がついても、そこはただの野原。
何も無い野原に、日本から持ってきた荷物を降ろし、トラックに揺られること、更に2時間。
今で言う「うるま」という地に到着。
ここが、日本人による一番初めの入植地だった。
すぐ横にはグランデ河が流れていて、ここに茅葺小屋を造り、農業で生計を立てる生活が始まった。
農業と言っても、回りは鬱蒼と生い茂るジャングル。
数メートルと高い木々が生えていて、昼でも薄暗い。
当然、耕地としては程遠いので、まずは森林を抜開する作業から始まった。
毎日、男は鋸を持って樹と格闘し、女は食事を作り、子育てをする。
使い勝手が知った日本であれば特に問題は無いが、全く未知の世界ボリビア。
生活の困難は、想像を絶するほど大変だった。
しかし、何とか頑張り続け、数ヶ月が経過。
皆の生活が軌道に乗り始めたと思った矢先の事だった。
突然、悲劇は起こった。
原因不明の難病が発生。
続々と倒れていく人たち。
寒気、嘔吐、高熱、発疹。
医者は居たようだが、原因が全くわからず、手の施しようが無い。
しょうがなく、サンタ・クルスの病院に患者を搬送するが、全く原因がつかめず、うるま植民地が混乱に陥った。
原因は、現在でもはっきりと解っていないと言われている。
急遽、集まった総会で、この地を離れ、新たな新天地を探す事が決定した。
場所は、うるま植民地から西に50kmほど行き、更に北へ30kmモンテーロへ。
そして、更に西に30km行ったほどの場所であった。
その地の名前は「パロメティーヤ」。
一からの出直しであった。
うるまでの同じ生活が始まった。
再びジャングルを抜開し、耕地を造る。
なんとか開墾も出来、畑として機能するようになった。
ここパロメティーヤでは、1年位の生活が続いた。
そんな中、再び問題が発生。
平穏な日々は、束の間だった。
耕地を希望する移住者、土地を所有している地主との折り合いが悪く、ある一定の耕地しか得る事ができなかった。
再び、移住者の生活は行き詰ってしまう。
再び、新たな生活の場所を探さなければならなかった。
さながらジプシーの様に、ボリビア各地を探し続けた。
色々と八方を探した結果、なんとか移住する地を見つける事が出来た。
このパロメティーヤから東に80kmほど行った場所に、生活の基盤を置く事ができると分かった。
そここそが、現在の第1移住地にあたる場所であって、パロメティーヤから移り住み、生活を始める。
ここでの生活は、やはり農業。
農業の地権は、くじ引きで決められたと言う。
その土地の広さは一人50町。
1町は10m×10mの10倍、そして、それの50倍。
果てしなく広い大地が延々と続く。
しかも、そこはうるまの地と同じ鬱蒼としたジャングル。
こつこつと抜開作業をする開拓者達。
誰にも文句も言えず、後悔する時もあったと言う。
毎日毎日、樹と格闘の日々が続いた。
しかし、アメリカ合衆国の援助などもあり、ブルドーザーなどの重機が入ったお陰で、抜開作業も大幅に楽になったと言う。
水は沼から濾過して使っていたが、打込井戸が完成してからは、水には不自由しなくなった。
食料はグランデ河から採れる魚、そして、イモの種類であるユカ、とうもろこしなどであった。
とりあえず、食べるには問題は無かった。
農業は、当初陸稲を栽培して生計を立てていた。
しかし、陸稲はボリビアの気候に合わず失敗。
その陸稲に変わったのが、綿花だった。
世界的にも綿花の価格が上がり、綿花ブームが始まっていた時だった。
それと同時に、移住地でも綿花に力を入れる事に決定。
綿工場も建設し、農業の基盤が軌道に乗ったかに見えた。
しかし、綿花の価格は、一気に上がった様に、一気に下がるのもまた同じだった。
綿花の国際価格は急激に下落。
しかも、毎年雨季になると大雨が降る為、綿花もまた、この地ボリビアの気候に合わなかった。
ブームは所詮ブームで終わってしまったのだった。
またしても、奈落の底に叩き落された。
母県沖縄からも農業の専門家などが視察、どんな作物が合うのか本格的な調査が始まった。
そして、調査の末、大豆がこの地に適しているだろう、という結果がでた。
移住地内に起死回生の大豆栽培が開始された。
人々は、固唾を飲んで大豆の成長を見守った。
その甲斐あって、大豆は見事に移住地の気候に合い、豊作になった。
そして、大豆に続き、小麦も栽培できる事が分かった。
人々は、その報に喜び勇んだ。
三度目の正直だった。
農業協同組合も設立され、農業の基盤が確立された。
その時の皆の喜びは、感慨一入だったであろう。
現在、オキナワ移住地は、ボリビアでも有数の農業生産地にまでのし上がったと言う。
ボリビアでは、オキナワ移住地を「小麦の首都(Capitai de Trigo」)と呼ぶようになった。
そして、終戦記念日である8月15日は「小麦の日(Dia de Trigo)」に指定され、毎年豊年祭が開かれている。
当初は第1移住地に全ての人が住んでいた。
しかし、徐々に南下する人が出てきて、現在の第2、第3移住地の基ができた。
1964年には、入植10周年の記念式典も開催され、徐々に生活は安定していった。
そして、移住地内に学校も設立され、子弟教育も始まった。
現在では、第1移住地に3校、第2移住地に1校の学校が存在する。
人口1万人の小さな村に、これだけの学校があるとは驚きである。
当時は、やはりスペイン語を重視して勉学をしていた。
しかし、1980年代になると日本への出稼ぎがブームとなり、日本語の必要性が大きくなった。
その為、現在、学校では午前中にスペイン語を、午後に日本語を教えている。
入植10周年記念式典を皮切りに、25周年、40周年と記念祭が開催されていった。
電気も入り、電話も開通し、メイン道路も舗装化されていった。
一歩一歩確実に、移住地が発展していった。
そして、入植40周年記念式典には、元ボリビア大統領ビクトル・パス・エステンソロも来賓として出席した。
一介の移住地に、その国の大統領が出席するのだから、それほどオキナワ移住地はボリビアにとって欠かせない存在になったのだ。
今は亡きエステンソロ元大統領も晩年、こう語っていたと言う。
「私がボリビアの大統領を勤めた中で一番の業績は、日本からの移民を受け入れを決めた事である」と。
一国の大統領に、こうまで言わしめた日本の移民達。
この言葉を聞いた時、思わず目頭が熱くなってしまった。
当時の移住者もこの言葉を聞いて、今までの苦労が報われた想いであっただろう。
そして、去年の2004年、アメリカ合衆国の統治管轄であった那覇港を出航して、50年の月日が流れた。
8月15日に開催された入植50周年記念式典。
現在のボリビア大統領も招待して、国内外から2,000人もの人達が集まった。
今までの祭典とは比較にならないほど、大規模に開催された。
50年と言う月日を迎える事が出来たのも、これも先人達の賜物である。
どんな苦難に陥っても、歯を食いしばって、我慢し、耐えて、そして、乗り越えてきたお陰であろう。
一世の人達は、どのような想いで、この式典に参加したのだろうか。
去年で大きな節目を迎えたオキナワ移住地。
これから将来、更なる発展が待っている。
すべてが整ったわけではない。
過疎化、グランデ河の氾濫による洪水、そして旱魃。
様々な問題を抱えている。
しかし、日本人が持っている「困難を乗り越えて達成する」と言う精神を忘れなければ、更なる発展が望めるだろう。
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自分も、旅の最中に、こうした歴史のある場所に、少しでも触れる事ができて感謝している。
滅多に出来ない経験をすることが出来たと感じている。
このような経験ができたのも、オキナワ移住地をここまで作り上げた大先輩のお陰である事を忘れてはならない。
【2005年04月 旅日記】